音楽とかなんとか 雑記帳

主に感想とメモです。

晴れ渡る景色の真ん中で〜藍月なくるとおとぎ話の周辺〜の解説

 

 

ブログの構成について

<2020(春)までの物語 主としてEndorfin.>

第1章:一目惚れの魔法と「おとぎ話」→第2章:ἀσφόδελοςとその周辺 →第3章:クラリムステラとポストモダンの回廊→第4章:Aufschwung→第5章:Le Temps retrouvé 蒼穹に放たれた物語

<物語が終わった後>

→最終章:横滑り・簒奪→第1〜5章(繰り返し)→コーダ. 紡いだ軌跡はこの今に繋がってる? 

 

書くまでの経緯

11月頃から何一つ感想が書けなくなって、その原因探しから始まりました。リハビリをかねてEufolieを書けどもうーん、Baby Romanticaも最終曲が好きだけど何一つとして書けず。とりあえず自分の書きたいものって何だろうと思い、年末に比較的よく聞いていた曲である「新世界のα」(Luna氏)を自由に書きました。新世界のαを書いた時、自分が探りたいものに光が当てられたような実感がありました。

そこからGalaxy triangle→Evil bubbleと進むにつれ、段々と自分の感情の変化が鮮明に見えるようになりました。ああ、こういうことか、というような実感です。

問題は「それをどう表現するか」ということでした。例えばここ最近の楽曲に焦点を当てて論ずるか、いや、それでは自分の書きたいものが書けない。となるとある一時期の楽曲に焦点を当てるのではなく、2014〜2021年の楽曲を粗方捉える必要がある。そしてEndorfin.の存在感が大きいので、それをコアとして描写する。分量は増えますが、そうしなければなくるさんの楽曲がどのように変貌し、わたしもどのように変貌したから、説明できないのです。

というわけで長い長い旅路が始まりました。しかしもう一つ問題がありました。文体(スタイル)です。今まで楽曲に寄り添って書いてきました。結構説明口調だったと思います。それを踏まえて解説文のように批評(?)することもできました。それをもって論難することも一応できます。しかし、それでは伝わらないと思いました。それで論ってもただのお気持ち表明にしかならないのではと。きっと非常に冷酷な文章となり、本人やファンの不快感を煽るものになる可能性が高い。

だから、そのスタイルから外れる必要がありました。そこで援用したのが、「評論それ自体も作品である」という発想です。オスカー =ワイルドあたりからひろいました。だとすればどのような作品を目指すか。一つの物語が記事それ自体で成り立つような作品です。そうすれば、なくるさんの過去作品を追憶することができるし、わたしが何を見てきたかも伝えることができる。

それに大きな材料を提供したのが、先述の「新世界のα」の感想でした。ストーリーを追いながら自由に脱線し、溢れだした発想を記述する、これはいいのでは?と思いました。

そしてこの考えが長い長いポエムと過去作品からの大量の引用に繋がりました。脱線しながらも全てが一つの物語に完結していく、そうすれば私が見てきたものを、大学時代という最後のモラトリアムの中で見たり聞いたりしたものを、そのままの形で伝えることができるのだと。

ひいてはEndorfin.等の楽曲群を穿ち、その物語を復活させることによって、2021年の諸楽曲に対抗できるのではないか、その力を引き出せられれば、自分の抱えてきた感情が報われるのではないか。詩的で少し難解にすることで、迂遠にしながらもニュアンスは心の内に刻まれるだろうと思いました。

おおよその図案が決まったのは3月でした。それから1ヶ月ちょっと、昔の楽曲を聴いたり、歌詞カードを見直したり、知らない世界の境界線を買ったりして曲を捉える、エピグラムをどうするか、哲学や文学関係の論文を読んで勉強しながら少しずつ書き上げていきました。そして以下のような形をとろうと。

つまり、新島夕さんのエロゲのシナリオを、特に魔女こいにっきを下地にしながら、そのおとぎ話をなくるさんの諸楽曲に適用し、2014〜2020年までの楽曲をさまざまな事象を繋げ合わせながら書く。そのシナリオとEndorfin.の楽曲はかなり近い関係にあるのではないか、と思っていましたのでシナジーはある。それでⅠ.〜Ⅴ.と最終章、コーダという形式になりました。

 

第1章:一目惚れの魔法と「おとぎ話」解説

 <紹介した主な楽曲>

・Lovin’me

・Horizon Note

・桜色プリズム

・Spica

<引用>

・魔女こいにっき

・「ファウスト

 

<総括>

第1章ということで、「物語の始まり」をイメージして書き上げました。Endorfin.の登場までが範囲です。

ブログの一つの目的として、「Horizon Claire後の急激な変化」を記述することがありました。それによって楽曲に対して感じるものが全く変わる。Horizon claire以前と以後での断絶が、物語の終焉を表します。ひとまずその終点を決めた上で、始点(第1章)のモチーフを練っていきました。

 

そこで物語の大枠として使ったのが魔女こいにっきでした。タイトルと最初の部分は同ゲームのOPのテロップから取りました。「ひと目惚れより永遠を どうか日記に残せたら あなたが明日へ去らぬよう私に魔法が使えたら」(詳しいストーリーは調べてください)

そのモチーフを利用しながら、Lovin’meの「魔法をかけて」に繋げて、変わることのない永遠の物語を開始します。

 

なお、ファウストの最終部を引用したのは、その「永遠」が祝福なのか、それとも虚無かを暗示させるためです。そもそも私がこのおとぎ話を語り、追いかけること自体何の意味もない=虚無ではないか?永遠の物語に暗雲を立ち込めたようなニュアンスを出しました。このような「皮肉った表現」は先述の「断絶」=「物語の終焉」=最終章に向けられており、他の章でも所々顔を出すように散りばめられています。

 
<各論>

「あの時同じ花を見て美しいと言った二人の心と心が今はもう通わない」

→「あの素晴らしい愛をもう一度」より

 

7年にわたるstorytellerのクロニクルを辿ることができればきっと、今から話す物語の意義についてわかると思う。

→これは第5章・最終章で現れます。storytellerはここではなくるさん(ないしEndorfin.)

 

テクニックの愉悦に浸った歌った曲ほど強烈な自己愛が入り混じって聴き苦しいものはない。

→割と重要 「技術」による過剰表現の否定が、このブログのスタンスの一つです。何回か似た内容が繰り返されます。

 

桜色プリズム:君と二人きりの「終わり」

→第2章での本居宣長「玉勝間」へ

   第5章での「終点前」へ

 

第2章: ἀσφόδελοςとその周辺 2016(秋)〜2017(秋) 解説

 <紹介した主な楽曲>

・片翼のディザイア

paradise lost

・アプルフィリアの秘め事

Raindrop Caffé Latte

・春風ファンタジア

・プレゼント

・生命の灯火(少しだけ)

・Soleil de Minuit

・スケッチブック

・知らない世界の境界線

<引用・元ネタ>

本居宣長『玉勝間』

・Steve Reece "Homer’s Asphodel Meadow"

・ミルトン『失楽園

ベルクソン意識に直接与えられたものについての試論』(より一部エッセンスを抽出。ここの部分についてはバシュラールも参照)

・張耒『張耒集』

新海誠『秒速五センチメートル』

・モルスリウム

<引き合いに出した楽曲>

花たん「Brand new voice」

 

<総括>

第2章は2016〜2017となくるさんが音声作品で注目を浴び始めた時期であり、楽曲の方ではRaindrop Caffé Latteなど今でも高い人気を誇る作品が出ているので、注力して各楽曲を書きました。また、現在でも多くの楽曲を担当するFeryquitousさんがこの頃より楽曲提供をし始めています(乖離光・緋の青などは2017年)。問題はEndorfin.となくるさん個人楽曲とFeryquitousさんの楽曲はどれもこれも趣向が違うことです。それらの楽曲が同時並行で誕生しているので、章分けをどうするかで迷いました。結果的に、第2章を2016年〜2017年のEndorfin.と諸楽曲、第3章をFeryquitousさんの楽曲を提示しながら2018年冬のJelLaboratoryの世界観に繋げ、第4章で2018年のEndorfin.を中心に展開する、そんな形で仕上げようとしました。

第2章の序文は綺麗に書けたのではないかと思います。本居宣長の「兼好法師が論い」を参照しながら「切実さ」というキーワードを抽出し、切実さが切実であるからこそ、報われなかったときの寂しさが強調されるという過程を描きました。これがEndorfin.の歌詞の中核に当たる部分だと思います。

そして第1章から「永遠性」のテーマを受け継ぎ、「永遠の花」という表象を出しました。その最たる例がἀσφόδελος(アスフォデロス、ツルボラン)です。ギリシャ神話で楽園ないし死後の世界に咲く花ですが、上記のSteve Reece "Homer’s Asphodel Meadow"より、楽園に咲く花と暗澹たる冥界に咲く「灰」の花という2つのイメージに引き裂かれています。また、モルスリウムより毒花「モルス」となくるさんが演じたメリエを通して以下のようにまとめました。

 
   ↗︎楽園の花-幻想的なモルス-第2.4章

アスフォデロス

   ↘︎冥府の花-「毒花」のモルス-第3章

 

と分岐させました。楽園と楽園の最深部という第2章最後の表現もこれに依拠してます。

 

なお、この第2章は取り上げる楽曲が多すぎたので下記の2曲以外は極力省いています。本来はなくるさん作詞の「Spring for you」についても言及したいし、「知らない世界の境界線」も歌詞を丁寧に追いたかったのですが...あえなく割愛となりました。(でもいざ書けといわれても結構悩みそう) 

 

<各論>

Raindrop Caffé Latte

→モノローグのみで貫徹している点を抽出、これもHorizon Noteと共にEndorfin.の楽曲の特徴になると思います。ついでに言えば新アルバムは「モノローグオフ」でしたね。意識しているのかな。

ここで「メルヘン」の要素を洗い出しています。近代って中世の世界観からはかけ離れていて、所謂魔術的なものが魔術的なものとして隔離され、科学から追放された世界なんですよね。非科学的なものが素直に受け入れられる余地が無いのです。だから、否定的に解釈しなければ、現在ではメルヘンを享受することが出来ないのです。「一人君を待つ時間も幸せのスパイス …なんて浮かれてるかな」という態度は、まさに近代のメルヘンを良く表していると思います。

そしてRaindrop Caffe Latteでは意識の流れの中で、空間的物理的な時間とは違う「時間」が流れているのでは?と思います。明らかにRaindrop Caffe Latteではモノローグ=意識の流れに焦点が当てられ、きっと十数分しかない待ちぼうけの時間が、意識の中ではその時間以上に感じられていると受け取れます。そこら辺の具体的な事情について*1バシュラールより「瞬間」論との対比で読むことで分かりやすくなってます(実は自分もよくわかってない)。この瞬間の話は、春風ファンタジアの歌詞にも同じことがいえるのではないかと勘ぐっています。

 

 春風ファンタジア

→張耒から「然れども均しく知るべからざるに于いては、則ち亦た安くんぞ此の花の忽然として吾が目前に在らざるを知らんや」という文面をエピグラフに持っていきました。「知らないという点においては、どうしてこの花が突然私の目の前に現れないということを知れようか、いやわからない」という意味ですが、これはコーダに繋がります。

近代とは豊富と混乱の時代とは吉田健一『英国の近代文学』あたりから取りました。本来であればここの部分はもっと厳格に捉えればならないのですが、さすがに脱線しすぎるのもアレなので割愛(実際は自分の勉強不足なんですが...)。ただし、吉田健一も言っていますが、近代を上記のように解せば、ヘレニズム時代のような2000年以上離れた時代であっても近代と看做せるので、その意味では、結構重要な指摘であると思います。

桜の部分は書いてある通りですが、桜の表象は他の章でも繰り返し登場します。第2章では最後に「Brand new voice」という「すきま桜とうその都会」というエロゲのOPから歌詞を引用していますが、「追憶」というこのブログの一つのテーマを取り出しています。あくまで過去の楽曲を辿っていくのがテーマですので。なおbrand new voiceの歌詞の内容がこのブログとリンクしている部分が多いので、どこから引用するか悩みました。以下載っけます。

「桜色の都会は今 そっと語り始めるよ 幻と真実のすきまにある物語を」「桜色の都会を今 旅立つ時が来ました 夢よりも儚くて想い出より懐かしくて」

前者の中でも「幻と真実のすきまにある物語」というのがいいですよね。これもコーダと関連する要素です。後者の歌詞も「旅立つ時が来ました」が好きです。


第3章: クラリムステラとポストモダンの回廊 2018 解説

 <紹介した主な楽曲>

・乖離光(2017年)

・identism(アルバムの紹介のみ)

エーテル

・Cadeau de Dieu

<引用・元ネタ>

江ノ島水族館 クラゲファンタジーホール

バタイユ『エロティシズム』 

ランボー「永遠」

エクリチュールに関してはR.バルトらの議論を参照(まだ勉強中)

 
<総括>

第3章はFeriquitous氏の楽曲を起点としてJelLaboratoryへと広げました。第2.4章がEndorfin.中心であるならば、第3章はクラリムステラ中心に、という感じで分けています。また、第3章では「愛と幽世の終着点」というJelLaboratoryの最後の曲を踏まえて、「楽園の最深部」=荒涼とした死後の世界を意識して、第2章と対になるように描きました。

ここでのキーとなる議論は「死」です。同時に文明の死も絡んできます。jelLaboratoryが奏でる不気味に付き纏う「死」の観念、それをバタイユの議論をなぞることで第3章全体の構成を立てています。生殖と死という連関をバタイユは『エロティシズム』で考察していますが、まさにJelLaboratoryのイメージにぴったりです。なお、『エロティシズム』の序論で引用されているのが上記のランボー「永遠」です。

また、Fertquitous氏独特の歌詞をJelLaboratoryの時系列よりも前に挿入して、一義的に解釈できない、抽象的で明らかにわれわれのコミュニケーション言語から外れた「文章」の存在とその効果を提示し、BascorやEvil Bubbleなど後のFeryquitous×藍月なくる楽曲の手がかりを描きました。

要するに文章をわたしたちの使ってるそれとは違う形で示すことで、この文明社会の根底を流れるコミュニケーション=意思疎通の前提を相対化させているというわけです。だからよくわからない。それはもっと過激に言えば意識的に文明を破壊している、文明の死ということになりそうです。その破壊を先導するのは、特に何の政治的イメージを表象することのなかった「クラゲ」であり、クラゲの持つ優美さと刺胞毒という二面性がJelLaboratoryの世界観を屹立させていると捉えました。

「文明の相対化」↘︎  (近代的な意味付けない)

         「クラゲ」

「死の観念」  ↗︎   (刺胞毒)

というイメージです。

 
<各論>

Cadeau de Dieuはまさに連続性を恢復する物語であり、その連続性=死の中に個体は消えていく。生殖を通じて悠久の時を刻み、生命は皆海へと帰っていく。

→生きる私たちは「不連続」である。私以外私じゃないのだからそりゃそうですよね。でも私と誰かの間で連続性を回復する時があり、それが生殖である。そんなことをバタイユは考察していますが、それをネタにCadeau de Dieuを再構成しました。

 

連続性へと投げられた、破壊的で蠱惑なエネルギーは何処へと向かうのだろう。

→エネルギーはどの章でも書いてますが、所謂「過剰になったエネルギー」です。これを消費する行動をバタイユは『有用性の限界』で蕩尽と呼んでいます。目的的な労働(有用性の原理)とは明らかに対立する行動です。まあ「無駄遣い」と思ってくれれば大丈夫です。JelLaboratoryはまさに死という根源的なテーマをちらつかせており、その後もTranspainでも似たようなテーマをちらつかせているわけであり、このエネルギーがどこへ向かうのか、どのように消費されるのか、その終着点を見定めることは重要だと思います。最終章の序文はその答えを提示しています。

 

第4章: Aufschwung 2018〜2019 解説

<紹介した主な楽曲>

・泡沫の灯(Alt.Stratoより)

・Cotton Candy Wonderland

・懐色坂

・純情ティータイム

・薄明が告げる明日に(LOST IDEA)

・これくらいで

<引用・元ネタ>

福田恆存『人間、この劇的なるもの』

ウィトゲンシュタイン「草稿」

<引き合いに出した楽曲>

・Cotton Candy Wonderland

 

<総括>

Alt.Strato~「これくらいで」までの期間を辿ります。Aufschwungは「飛翔」の意。時系列的には第3章と同じです。なお、今までのブログでほとんどの楽曲につき感想を書いていたので、脚注の引用ブログで処理している箇所も多くなっております。Alt.StratoやLOST IDEAはそのような書き方になっていますが、今回のブログと関わりが大きい楽曲については触れています。特に「薄明が告げる明日に」はなくるさん作詞曲であり、今まであまり詳しく書いたことがなかったため紙面を割いています。

ですので、文量を抑えるためにも上記の楽曲については詳しく触れない代わりに、純情ティータイムとこれくらいでを充実させました。前者はRaindrop Caffe Latteとの関連性から、後者は堀江晶太氏の歌詞とEndorfin.の歌詞との対比から読み解きます。

そしてクロージングは、言葉という永遠性とCotton Candy Wonderlandです。考えてみたら言葉の誕生が歴史の始まりであるのであって。その言語の法則がわかれば数千年前であってもある程度は理解することができる。そんな感じで触れていただければ大丈夫です。「永遠」への糸口をここで触れることが重要です。それがより展開されるのがコーダ部分です。Cotton Candy Wonderlandは「甘い時間」というワードとちょっと意味深な終わり方から、この第4章が究極的には夢であり、いつか終わってしまうことを(永遠性とは反する?)暗示します。段々と物語が崩れていく不穏な空気が存在感を増しています。

 

<各論>

理想だけを追い求めてもそれは空中に浮かぶ楼閣のように不自然で白々しいものになってしまう。理想家であるためにはまず現実家でなければならない。ままならない現実と格闘しなければ理想は打ち立てられない。

福田恒存『人間、この劇的なるもの』より。この後に続く「ストイシズム」に関する指摘もここから取り出しています。

 

ある時は可愛らしく頼もしい女の子として、ある時は残酷な現実に振り回される、迷える子羊のような連中たちの語り部として、またある時は...。

→「迷える子羊」は最終章にて「メリーゴーランドをぶっ壊せ」を踏まえた表現です。

 

やはりなくるさんを引き立てるのは楽曲の観念(歌詞やセリフ)なのだろう。

→Endorfin.の強みって作曲もそうなのですが、それに乗っかる歌詞が非常に冴えていて観念をしっかりと捉えているのですよね。そういった土台があるからこそ、なくるさんの歌声がさらに極まったものとして聞こえるのでしょう。

 

明朗にシャープにこの世の問題について一つの解答を示す堀江氏は、その歌詞の文体が面と向かった相手に対する「語りかけ」であるのに対し、何も行動することができない無情な状況を描こうとするEndorfin.は、その歌詞の文体が相手がいるのにもかかわらず「モノローグ調」であるところに大きな違いがある。

→モノローグがEndorfin.の特徴だといっていたら、Monologue offというアルバムを先日出していたので、この文面もあながち間違いではなかったのでは?と思っています。

 

第5章: Le Temps retrouvé 蒼穹に放たれた物語 2019~2020(春) 解説

 

<紹介した主な楽曲>

・終点前(stories of Eveより)

・君よ

・ミントブルー・ガール

・彗星のパラソル

・Horizon Claire

<引用・元ネタ>

・「恋×シンアイ彼女

尹東柱「隕石の墜ちたところ」

プルースト失われた時を求めて』見出された時

<引き合いに出した楽曲>

Duca「記憶×ハジマリ」

・Endorfin.「残光」

・藍月なくる「Piece of Mind」

 

<総括>

おとぎ話の最期を描いた章です。第2章と同じくらいの分量であり、きっと読み解くのがかなり大変だったと思います。すべての物語が合流する最終場面ですので、様々な表象を織り込んで第1章〜第4章の総括するように意識しました。取り上げる曲は5曲と少ないですが、(そのうち「君よ」は引用で済ませているので実質4曲)その分以前書いたものよりもボリュームを増しています。特に「終点前」と「Horizon Claire」。

エピグラフには「恋×シンアイ彼女」より星奏のセリフを採用しました。「私が戻ってきたのはね。もう一度、星の音を聞くためだよ」。ここで「戻る」と「星の音」が新たなテーマとして提示されます。前者はHorizon ClaireでHorizon Noteと同じ舞台に戻ったことを強調するために引用しました。「痛くて甘い想い取り戻そう」や「あの日の星の音を 一緒にみつけよう」とDuca「記憶×ハジマリ」を引用したのもその流れです。始まりに戻る...物語の終焉へと段々と近づいてきました。

問題は後者の「星の音」です。これは「恋×シンアイ彼女」を読めばわかるのですが、星奏の作曲の原動力を象徴しています。同時に「星の音」は過去の思い出である。

勘のいい方はわかったのではないのでしょうか、「星の音」は非常に不穏で辛い結末を暗示させるものとなっています。つまり、最終章で語られる藍月なくるを巡る諸問題へと手をかけていく予兆として「星の音」という表象を借りました。具体的に「星の音」がどんな皮肉を込めているかは読み手の判断に委ねます。大人たちの都合に振り回されて才能を搾取され、「星の音」に縋って主人公を利用した星奏の姿が、歌い方を全く変えて評価もガラッと一新され、過去の夾雑物の混じった可愛らしい声を失ってしまったなくるさんと重なったり、いつまでも過去の楽曲に縋る私のような存在とも重なったりと、Endorfin.の物語のstorytellerの倫理観を露わにしたり、いろいろ解釈できると思います。Horizon Claireの歌詞からも、この「星の音」は聞こえるのではないか、各論の方に回しますが第5章全体を貫くテーマとなっています。

終点前→Horizon ClaireというEndorfin.の楽曲を中核としながら、そこにアクセントとしてLa priereの「君よ」を挿入して最終章への橋渡しを果たします。「君よ」で明らかになった歌い方の転換が不気味に響きながら、「星の音」を取り戻すためHorizon Claireという物語の終焉へと運んでいく。

そして夢のような物語から目を覚めてしまう。楽しい夢が終わるのは悲しい。Piece of Mindを引用したのはその流れです。Endorfin.と題された本を読み切ってしまった。でも、そのページの続きを書くことができるのではないか。endorfin.がstorytellerであったように、私も同じ立場になればいいのではないか。今まではなくるさんたちが語ってきたお話を、感想という形でブログにしたためていましたが、そこから脱皮して自分自身もstorytellerとして書いてみようかと。第1章で述べていた7年間のstorytellerのクロニクルの結末が、ここにあります。このブログ自体、非常に個人的なものとなったのは予定調和というか、むしろ「自分が見たものを描く」というテーマからして必然ではなかったのかなと思います。それを具体的にすれば、上記のように語り手の移り変わりになるわけで。

想いを書き留めた紙飛行機を当てもなく空に投げる。それを誰かが拾ってくれれば想いは託されるのではないか。さすれば、Endorfin.の物語を永遠にとどめることが可能ではないか。そのようなイメージを思い浮かべながら(これはリフレクションの歌詞からニュアンスを取ったのですが)、ブログを書き綴っていました。

最後にプルーストから『失われた時を求めて』を引用していますが、タイトル回収はコーダの方で解説します。

<各論>

「終点前」について

ストイシズムを駆動させるエネルギー源とは、この梃子だったのではないか。

→これも福田恒存『人間、この劇的なるもの』より引用

 

全てのものはいつか終わりがくるから美しいなんて観測者の戯言

→End of fin というEndorfin.の由来が仄めかされていて第1章の「桜色プリズム」の延長線上にあります。そこに第2章で辿った本居宣長の「切実さ」の話を繋げることでより重厚感のありう表現に仕上げることができたと思っています。その意味で、観測者という存在がいかにEndorfin.の物語の主人公にとって相対立するものかが理解できると思います。

また最終章に入ってからですが、観測者という「終点前」のメタ的な表現と、非難の対象とした「Galactic love」のメタ的表現を対比させて、Endorfin.の言葉に対する意識の強さを表現したつもりです。

 

彗星のパラソルについて

→Horizon Claireの感想ブログを脚注で載っけていますが、それを踏襲した形になっています。尹東柱「隕石の堕ちたところ」の引用も、彗星のパラソルが提示する「わたしたちはどこへ行くのか」という茫漠とした不安を託すために使いました。途中の「rosebud」は映画「市民ケーン」より。調べればわかります。

 

Horizon Claireについて

「呪い」とはすなわち「祝福」である...以下

→呪われた生/祝福された生というすばひびのEDがありますが、もう一つ、古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』の「彼は哲学に祝福され、かつ呪われていた。」から引用しました。

過去は太陽、月は未来

ポール・オースター『ムーン・パレス』より。また、佐藤聡美「Le jour」の歌詞からも。非常に好きなフレーズなので使いました。

 過去とは太陽である。それ自体直視できないほどのエネルギーを見返りなく授ける。恒星もまた同じく全てを焼き尽くし光を放つ。 それは過剰なのだ

→第3章の「過剰になったエネルギー」と同一です。過去=太陽=過剰供給されるエネルギーという風に繋げ合わせました。ただし注意しなければならないのは、過去は太陽とはいえ、過去それ自体は有限であることです。無限にエネルギーを与え続ける太陽とは性質がどうしても異なるのです。経験された過去に限られているのにも関わらず、それが太陽のように眩しく輝いてように思ってしまった。きっとこの錯覚が、星奏やEndorfin.の物語の主人公が持たざるをえない、近代人としての要素だろうと思います。

 

万感の思いがHorizon Claireに輻輳する。見出された時がそこにある。

→コーダ参照

 

最終章.  横滑り・簒奪 2020.4月~2021 解説

<引用・元ネタ>

バタイユ花言葉

バタイユ「死と供犠」

バタイユ「サドの至高者」

福田恆存日本新劇史概観」

・『魔女こいにっき Dragon×Caravan』

<引き合いに出した楽曲>

・竹田直子(結衣菜) 「メリーゴーランドをぶっ壊せ」

<総括>

総括すると大分まずいので引用の意図だけ。「花言葉」は初期のバタイユの論考ですが、まあイメージとして綺麗なものとして語られる「花」が、花びらを取り除けば悍ましい器官だけが残っていることを指摘することで、彼特有の反イデア論を展開するものです。もっともっと醜い方向へ、穢らわしいものに込められたエネルギーみたいなものを取り扱っているのだと考えればいいです。要するに花も花で最終的には目も当てられないものになりますよ、と。これも皮肉です。

そして「死と供犠」では横滑りという単語を取り出しました。上記の蕩尽に費やされるエネルギーが、有用性=労働の世界に従属してしまう、去勢されてしまうということを指しています。エネルギーがシステム側に取り込まれるイメージです。この図式をなくるさんの歌声に当てはめました。つまり、互いに矛盾するような夾雑物をもつなくるさんの初期のエネルギー溢れる歌声が、2020年には歌唱技術やら「透明感」やら現代的な流行の形式に落とし込まれた、ということになります。第1章から繰り返されていた「弁証法」とは、このバタイユ独特の唯物論弁証法(ヘーゲルとは異なるもっとラディカルな弁証法)へと繋げるためにあります。

また、「メリーゴーランドをぶっ壊せ」も様々な意味を込めさせています。一つは「メリーメリーゴーランド」への当て付けになるでしょう。はつゆきさくらのストーリーとこの曲の歌詞を読み込むことで、きっとこのメリーゴーランドの意義がわかるのではないでしょうか。

そして「魔女こいにっき」を最後に持っていくことで、「永遠のおとぎ話」というテーマを再確認しました。「何が失われたのか」それを見つけるために、第1章まで巻き戻るという構成を採用しました。

<各論>

「桜が咲いて散ったその後」

→UNIZON SQUARE GARDEN 「桜のあと (all quartets lead to the?)」より

 

言葉に表されると、暴力はその暴力性を去勢される。バタイユがサドに見出したものである。

バタイユ「サドの至高者」より。言葉はどちらかといえば理性的なツールですので、暴力とは真反対かなというニュアンスが伝われば大丈夫です。

 

配信内のなくちゃと歌い手藍月なくる

→この図式に対する批判が最終章のポイントです。例えばここ最近のLa priereは商業主義的な楽曲に移行しているし、先ほどの歌い方の変遷も、大衆迎合的なものになっている。「透明感」というふざけたマジックワードで評価されるような歌い方に、そもそも一点の価値もない。所詮透明感を構成する諸要素は、すぐにそれ自体が変化することでバランスを崩し、濁らせてしまう。「透明感」のある女優で数年経っても生き残った人がどれほどいるだろうか。それくらいの価値しかないのです。だとしたらまだ雑でも個性的な方が生き残る可能性があります。まあ歌い方の変化は年齢・体力等の兼ね合いもありますし喉に負担のない声の出し方を追求しなければ歌手として長く続きません。その試行錯誤それ自体は否定してはいけません。しかし、それによって何を得て何を失うのか、それに無頓着であることが一番愚かです。それを地で犯し続けているのが、要するにわれわれファンなわけです。何がなくるさんの魅力なのか、どの言葉で捉えるのが正確か、それを考えもせずに乱暴に「透明感」だの「かわいい」だの「なくちゃ」だの幼稚な言葉を振り回すのはいかがなものかと。もちろん新規参入したファンも大勢いると思いますが、彼らにとっての推しからも「過去のなくるさんの楽曲を聴いてみて」と繰り返しアナウンスがあったはずです。そういった既存の活動に対する配慮・リスペクトがあるわけです。それでもなお、配慮を無下にして、あまつさえ「この人の魅力は何なのか」という普遍的な問いに対して何一つとして考えない自称ファンがいるとすれば、きっと投資商品か自分にとってのアクセサリー程度にしか考えていないでしょう。まあアクセサリーかもしれませんが、それは首にかけたり耳にぶら下げられるほど軽いものではないと思います。近代人が背負う「十字架」の存在を痛いほど突きつける楽曲を、今まで歌ってきたわけですから。

 

Coda 紡いだ軌跡はこの今に繋がってる?  解説

 

<紹介した主な楽曲>

 ・For Ulysses

<引用・元ネタ>

・吉田裕  「空間の輻輳に関する試論 Ⅲ」

池内紀カフカの書き方』

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

・「恋×シンアイ彼女

<総括>

コーダのテーマは「物語はどのようにして生成されるか」ということです。作劇法の話です。このヒントを探るためにプルーストの『失われた時を求めて』を参照したり、カフカの『審判』を参照したりしました。前者は空間の生成の問題です。第1編「スワン家のほうへ」紅茶に浸したマドレーヌの食感:ティーカップ→記憶の想起と、第7編「見出された時」不揃いな石の躓き→記憶の想起までは膨大な時間と3000ページ以上を費やすこととなりました。始点と終点が類似している上に、時間の流れが物理的空間的なそれとはかなり異なります。さらにティーカップという小さい空間から、このような壮大なストーリーが誕生したことも注目に値します。一方後者は始点と終点が本当に酷似していて、さらにカフカはその2点から書き始めたことがわかっています。すなわち同じ場所、同じような配役でセットすることで、その間隙から物語が生まれると言えないのではないか。

意識を通して、物理的世界とは異なる時間や空間のカタチが存在すること、その間隙から物語が誕生すること、その現象を生かした作劇法が、「始点と終点の酷似」であることを捉えました。これがEndorfin.の場合、Horizon NoteからHorizon Claireという、明らかに対になるタイトルと同一の舞台を設定しており、その間にRaindrop Caffe LatteやAlt.Stratoなどの春夏秋冬のアルバムが挟み込まれた形になっています。Horizon Noteの舞台から、季節を乗り越え様々なストーリーを旅することによって、また同じ舞台に帰ってくるという図式になります。これはMonologue off でも同じことが言えます。

物語の生成方法を発見することによって、死んでしまった物語をもう一度復活させる、それがコーダの目的の1つです。

そしてコーダのタイトル「紡いだ軌跡はこの今に繋がってる?」はHorizon Noteから引用しましたが、For Ulyssesを通して、まだなくるさんの歌声には往年の魅力が残されていて、まさにこの今に繋がっているのではないかということを確認します。そして、第2章の張耒の言葉と恋カケのエンディングを通して、もう一度Endorfin.の物語が奏でられることを願うという形で〆ました。

<各論>

おとぎ話は永遠の相の下に姿を現わす。形を変えながらも、かけがえのない思いはなくならない。永遠に。

→永遠の相は、スピノザの『エチカ』から取ってきたものですが、ここでは全論理空間とでも考えれば大丈夫です。ウィトゲンシュタインの「草稿」にもこの言葉が記されています。そして『論理哲学論考』で永遠の在り処を突き詰める、ここの結論は、個々人で調べて「永遠」を見出してください。