音楽とかなんとか 雑記帳

主に感想とメモです。

The Picture of Endorfin. 9th Album「Monologue off」と物語のきれはし

Endorfin. 9th Album「Monologue off」。それは「あの」愛おしいメルヘンの続き

 

名前もない黒猫と、私だけの秘密。

真っ白な部屋で目を覚ました少女が、黒猫と旅する物語。 さまざまな場所を巡る中で、少女は自らのことを思い出していく─

 

 

 

 Endorfin.とはなんだったのだろうか。その特徴を抽出するためにブログを書いたことがある。

pon-hide0228.hatenablog.comEndorfin.の楽曲の変遷を中核に据えながら、2014~2021年(2021年はおまけ程度だが)の藍月なくるさんの諸楽曲について触れたものであるが、Endorfin.の描く世界観とは以下のようなものだった。(1) Horizon Note〜Horizon Claireへと至る4年の物語という大枠があり、 (2)モノローグ調で自意識を多分に含んだ歌詞が特徴で、 (3)別れ(春風ファンタジア等)・世界の崩壊(LOST-IDEA)といった、今見えている日常や世界が喪われていく過程を描く、そんなものだった。それを(4)エロゲソングに似た鮮やかで爽やかなサウンドで包み込んだのがEndorfin.であると。そして年を重ねるにつれ、なくるさんの歌声にも変化が起こった。具体的には、互いに矛盾するような夾雑物をもつなくるさんの初期のエネルギー溢れる歌声が2019年までは保たれていたのに対し、2020年には歌唱技術やら「透明感」やら現代的な流行の形式に落とし込まれたことを示し、その過程を上記のブログで描いた。Endorfin.の物語は、Horizon Claireをもって終焉をむかえ、それを奏でてきたエネルギーも使い潰してしまったのだと。

Horizon Claireと時代の波に消えていってしまった物語はもう戻ってこないのか。いや、復活の兆しはこの「Monologue off」にある。

 

ノローグ」という層がEndorfin.全体を貫いていることを、結構前から感じていたが、まさか公式が「モノローグ」と名を冠したアルバムを出すとは思わなかった。自分の書いたブログとEndorfin.とで同じような内容のものを、ほぼ同時期に思い浮かべていたのは偶然であれ、ファンとして冥利に尽きるというか、私が見ていたものとEndorfin.が見出したものが同じであった、同じ旅路を歩んでいたのは非常にうれしく思う。上記のブログを書いた熱量も報われる。

 

さて、Monologue offの構造は以下のようになる。

 

海の底(アンダーマリン)→地上(Round & Round)→宇宙(惑星トリップ)→おとぎ話の世界(Alice's suitcase)→自分自身へ(モノローグ・オフ)。

 

前3曲は海→地上→宇宙とverticalに場面が展開される。それがスーツケースという旅路を表象する小さな箱庭(Alice's suitcase)に凝縮されメルヘンチックな物語が展開されてから後、自分自身の物語(モノローグ・オフ)へと還ってく。Horizon Note〜Horizon Claireが時間・空間を横軸として展開された物語であることと対照的である。海と空の境界線を超えてどこまでも垂直に飛ぶ。一方で、海・星・宇宙といった舞台設定はNacollection!を想起させる。これは藍月なくるさんの今までのアルバムイメージを踏襲しているとも解釈できる。

そしてこの「垂直旅行」のトリガーとなるのが「黒猫」の存在である。物語の導き手として、この主人公たる女の子を連れ出す。壮大な空想の世界を旅して「モノローグ・オフ」で現実へと戻る。一夜限りの魔法は解けてしまうのだ。

 

流れは以上である。ここで「モノローグ・オフ」のタイトルの意味を考えてみたい。「モノローグ」「オフ」と分割できる。この「オフ」の意味合いが鍵を握る。「オフoff」は分離を表す。そこに「終わり」という観念も見出せるだろう。モノローグ自体の終焉を意味しているのだろうか。それを押し進めてモノローグの「否定」、ダイアローグへの転換まで突き進む、すなわち今までのEndorfin.路線からoff(分離)するといえるのだろうか。

例えば、「黒猫」という導き手がいる点が他のEndorfin.のアルバムと隔絶している。基本的に一人称視点で物語がスタートし、自己の内部で物語が終始するのがEndorfin.の各楽曲を通して感じる印象である。そこから外れるのが、「LOST-IDEA」のシロとクロの二人の物語だった。しかし片方が主人公で片方が導き手という構図にはなっておらず、「モノローグ・オフ」とは登場人物の役割が全く異なる。また何よりも世界観も真逆である。日常世界の崩壊と再生の兆しを描く「LOST-IDEA」に対して「モノローグ・オフ」は無限の海、果てしなく広がる宇宙といった壮大な世界が広がるが、それは一人の少女と黒猫が生みだした「空想」の世界である。崩壊と再生という流れを踏んでいない。それを踏まえると黒猫の存在はEndorfin.の中でも特殊な位置づけになりそうだ。ここにモノローグからの跳躍を見出せるかもしれない。

しかし、「黒猫と私だけの秘密」と称されているように、少なくともこの女の子と黒猫だけの世界である。裏返せばそれ以外の外野の人間には触れられない。また彼女を連れ出すのは黒猫なのであり、人間ではない。かけがえのない思い出を彼女に残して黒猫は去ってしまうのだろう。そして孤独へと回帰する。物理的に「モノローグ」とならざるをえない。それに加え、その物語の意義はその当人にしかわからない。語っても聴き手にはその意義が伝わらない。結局彼女の物語は「モノローグ」へと帰着する。黒猫と分かった思い出は彼らだけのもの、そこには普遍的な意義を見出すことはできない。

ノローグ・オフといいながら、モノローグそれ自体に回帰する。モノローグから抜け出そうとすることによって、モノローグに意義を見出す。モノローグとの戯れの先にあるのは自分自身のみ。ここにEndorfin.らしさが浮かび上がる。その意味では何も変わっていない。

 

一切が空想で彩られた旅路、Endorfin.その肖像。

 単なる思い出だけでも、海や平原の広大さから遠く離れて、私たちは、長く、深い熟思をしながら、この大きさを眺めたことの反響を私たちの中で、新たにすることができる。
ガストン=バシュラール『空間の詩学

 

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1. アンダーマリン

 

これは名前のない黒猫と 私だけの秘密

清冽なピアノサウンドを響かせた後、アルバムのサブタイトルが提示される。明らかに「Monologue off」は一つの物語を語ろうとする。その後の1番の歌詞は場面描写と黒猫のお出まし。ここがスタートライン。旅路は「真っ白な部屋」から始まった。

 

全体的な曲調は、前作の「ミントブルー・ガール」に似ている。「ミントブルー・ガール」と同じく海のモチーフとEndorfin.らしい鮮やかな電子サウンドが基調となっている。歌詞も、「魔法」というワードがそうだが、関連する部分が多い。しかし、歌詞の構成は前述のように、「アンダーマリン」という海の底から海面まで上昇するような、垂直的な運動を想起させる歌詞であるのに対して、「ミントブルー・ガール」は他のEndorifin.の楽曲と同じく水平的に視点が広がる歌詞である。

そしてメロディ自体は符点を連続させ、非常に軽やかでリズミカルなものとなっている。サビの印象が強まる。ここらへんは今までなくるさんの楽曲にもなかったので新鮮である上に、テンポ感をもって歌い切れている。過去の楽曲を聴くに、なくるさんの歌声について響くのにディレイがあり、それがテンポ感やリズムを崩す要因となっていた節があったが、「アンダーマリン」では解消されている。それはそれで偉大な進歩であるように思う。

 

輪郭まで融けていくみたい 青に染まる指先

 この世界も自分自身のこともまだわからない

 だから見つけに行くんだ 僕らだけの海へ

1番Bメロ「僕らだけの海」という部分に外縁から閉ざされた世界観が浮き彫りになる。自分と黒猫だけ。そして自分探しの旅へ、ここが「モノローグ・オフ」へとつながる起点となる。知らないことが海のようにあるのだ。

 

あてもない冒険のプロローグ 不安も吹き飛ばして

 心の深層まで響く瞬間探しに dive!

  「どこまで行こうか」言葉は泡になって消えた

 透明な声で 君だけのヘルツで教えて

 「どこまで行こうか」海の中という言葉それ自体が伝わらない場所において、その問いは伝わるはずがない。またその問い自体意味がない。海の底から宇宙の彼方まで飛行することになるが、自分探しの旅に行き先などない。

爽やかで軽やかに語られるこの歌詞が非常にEndorfin.らしい。海の中という物理的な様相に問いかけの無意味さ(言葉は泡になって消えた)を表象させる、そしてヘルツという言葉が特殊な層を奏でる。音は聞こえる、それが誰なのかはそれぞれのヘルツ(君だけのヘルツ)によって認識される。この因果関係と言葉の配列によって「アンダーマリン」の世界観に厚みを加える。

「心の深層まで響く瞬間」これも旅の目的の一つであるが特に答えは示されない。「あてのない冒険」と合わせて刹那主義的であり、未来やら明日の計画やらそんなものは一つも考えられていない。現実では物理的な空間・時間軸のもとでしか生きていられない。しかし、想像(空想)の世界では、区画化された空間・時間ではかなうはずのない思いを解き放つ余地がある。そういった社会の桎梏から自由に飛び跳ね戯れるEndorfin.の世界観は、音楽や文学にしか成しえない輝きをよく体現していると思う。

 

そして2番の歌詞はキラーフレーズで彩られる。これもEndorfin.の楽曲の特徴である。

無限のアクアリウム 誰のためでもなく

 ただ こんなにも綺麗で

 何が宝物とか 何がガラクタだとか

 誰も決められない それぞれのコンパスで

別に海それ自体は誰かのために綺麗であるわけではない、ニュートラルな存在である。存在論に価値判断を挟むことはできないのはその通りだ。われわれがなぜ存在しているのか、それを説明できない(=その命題自体意味をなさないともいえる)ように。その糸口から「何が宝物とか 何がガラクタだとか 誰も決められない それぞれのコンパスで」と相対主義的な話に転換するのは非常に綺麗で、ここが一番印象に残った。みんな違ってみんないいとは、あくまで絶対的な物差し・価値判断を否定し相対化するが、行き着く先は自己意識の深化である。個性の誕生といってもいい。それぞれの価値基準によって、目の前の対象にどんな意味を見出すかが変わる。この文脈から黒猫と私「だけ」の秘密へ、つまりこれまでEndorfin.が奏でていたような個人的で他の誰からも切り離された領域へと聞き手を連れていく。まさに「僕らだけの海」はここにつながる。

 

「アンダーマリン」だけでも「まるで魔法みたいな」光景であるが、2曲目からもさらに加速する。メルヘンは強まるばかりである。そのメルヘンを享受する一方で、この魔法が解けてしまわないのではないか、その一抹の不安が頭を掠める。2~4曲目はそのような魔法の「喪失」のモノローグを挿入する。

 

2. Round & Round

 

「Monologue off」は全体的に明るい曲が多めだが、Round & Roundもまたその一曲。電波的な明るさではない。これまでのEndorfin.の楽曲の中では、電波やポップスといった明るめの曲も多いが、Round & Roundはどちらかといえばなくるさん単独名義での曲に近い。これまで頻繁に楽曲提供していたA_than_lily氏が手がけそうな曲調である。

 

遊園地のような光景が展開された後サビへと突入する。「イルミネーション」「メリーゴランド」「お城」「ジェットコースター」... 例えば1番Aメロ

どきどき 高鳴る胸とイルミネーション

 ぴかぴか 空から星を集めたみたい

 夢うつつの中...

オノマトペと比喩の使い方がEndorfin.らしくすばらしい。背景描写にも主観が入り込む。目に映りこむ対象(背景)から感情が生まれる、古典的な感性・悟性の図式であるように思える。いやその逆か。認識が対象を形作る。感情が遊園地を創造する。アプリオリに感情が措定されているからこそ、背景と感情の距離が短い。主観と対象を最短距離で結ぶのがオノマトペである。

 

両サビともキャッチーに流れる。そこにはEndorfin.の名前の由来である「終焉」が刻印されている。

終わらないで 覚めないで

   止まらない気持ちまるでメリーゴーランド

 非日常が日常を覆い隠してく

 終わる前にこの気持ち忘れないよう深く刻んで

   ...やっぱもう少しだけ!

もう一度! もう二度と止まらない気持ち

   まるでジェットコースター

   叶うのなら 時計の針を壊して

   この時間を ときめきを 一瞬に閉じ込めていたい

 けれど 針*1は廻ってゆく」

特に2番サビが美しい。「もう一度!もう二度と」のフレーズが強烈なインパクトを放つ。ここだけでも「Round & Round」を聴く価値がある。そして「この時間を ときめきを 一瞬に閉じ込めていたい」が切実さを高める。瞬間瞬間を惜しむ態度と近代的な時空間から逃れようとする、その感情の昂りは、先述のブログで繰り返し指摘した。ここにEndorfin.ないしなくるさんの魅力がふんだんに詰め込まれているのだと。

終わる前にこの気持ち忘れないよう深く刻んで」意識の先には「終わり」がある。メリーゴーランドやジェットコースター、遊園地を拵えた魔法が解けてゆく。午前0時の鐘が鳴る前に。念押しのように以下の一節がラスサビ前に挿入される。「ざらつく視界 目を背けたのはいつかの残像」。この旅路が永遠でないことがすでに示される。

なぜここまで「終わり」を気にするのか。日ごろ常に死を意識して生きる人間のように、強迫観念のように、終わりが付き纏う。もはや自分自身を確認する術にも等しいくらいに。Endorfin.の諸楽曲は、その由来通り「終わり」の観念との「終わりなき」戦いの中にある。

 

黒猫との逃避行、行き先ははるか遠い宇宙まで。落書き帳に描いたロケットを飛ばして二人ぼっちの旅は続く。

 

3. 惑星トリップ 

 

今までのEndorfin.の楽曲とは少し趣向を変えたEDM曲。歌い方は「hypnotic marmalade jam」に似てしっとりとしている。ポップスではあるが「Round & Round」とは違いサイケデリック。壮大な宇宙の光景がメルヘンにかたどられ、ポップでふわふわとした世界観を形成する。

 

きらきらコスモトリップ 遠く惑星 円になってゆく

   まだ誰も見たことない 言葉と法則の先へ

初っ端からサビのメロディが呈示される。多少歌詞をマイナーチェンジさせながらも同じ歌詞が3回リフレインさせる。この曲の核となるメロディであり、「きらきら」や「ふわふわ」といったオノマトペが刻むリズムが心地いい。

そして「まだ誰も見たことない言葉と法則」というフレーズが不思議な印象を与える。見たことない言葉とはなんだろうか。ここにソリッドな現実世界から、イメージたちが戯れる文学的領域への跳躍が見て取れる。イメージは新たなイメージへと回収されて鍛えられる。イメージの対象物Aと対象物Bが直接的な因果関係がなかったとしても、イメージの上では繋がり得る。それが比喩である。イメージを捉える言葉はその運動の中で都度発明されるものであり、決して静的に固まっているものではない*2。それは造語という形をとらなくても、語と語の有機的なつながりを変換するだけでもいい。たった一語、最小単位の変換であっても、いやだからこそ詩的効果は高まるのだ。

そしてこの運動の産物が端的に示されるのが、一番最後の歌詞である。ここに至るまでの過程を見ていく。

 

138億年の時間の最先端 泳ぐ小さな宇宙船

 軌道はあてもなく ただただ揺られるまま

「泳ぐ」という表現に「アンダーマリン」との関連性を見出せる。それぞれ対極にあるはずの宇宙と海が輪っかをつなぐように表現される。確かに海も宇宙も人間は息ができない、いまだに謎が多く残されている領域である。あてもなくただただ人のおよばない世界を漂っていく。しかしそのスピードは超高速で。「夢見たより夢のような場所へ」。「夢」をしてこのレトリックがすらっと出せるのがEndorfin.の歌詞の巧さ。

 

先述のように、この「惑星トリップ」は次曲と同じくメルヘン要素が強い。まるで絵本を読み解くかのようである。特にCメロの

いつしかぼくら星になるのなら

 となりの星は優しい星だといいな

は星に対して擬人法が使われているあたり子供向けのような印象を与える。Endorfin.の楽曲はほとんどがメルヘンを漂わせているが、ここまで直接的で優しい歌詞の曲は珍しい。

EDMのノリに合わせて暗い暗い宇宙をさまよう。使われる言葉・比喩のせいで「みんなのうた」にありがちのメルヘンな映像が思い浮かぶ、そんな楽曲であるが、その世界観の中でもEndorfin.の良さは端的に表れている。そして〆の歌詞がこの惑星トリップの意義を示す。

 

たとえいつか消えてしまっても

 宇宙はきっとぼくらを覚えてる

宇宙が「覚えてる」とはどういうことか。先ほどと同じく擬人法が使われているが、むしろ全体の歌詞を踏まえれば、主体と客体が入れ替わっているといった方がよさそうだ。あくまでこのアルバムの主人公と猫が「惑星トリップ」を体験している。つまり、「ぼくら」が「宇宙」を覚えているという構図を取っている。しかし、最後の歌詞は「宇宙」が「ぼくら」を覚えているという構図になってしまっている。

「語と語の有機的なつながりの変換」とはこのことである。宇宙とぼくらの関係を逆にすることでより惑星トリップの意義を強調することに成功していると思う。旅した記憶は誰かに引き継がれるのだと。自分たちは消えてしまってもなお、その足跡は残るのだと。

今までのEndorfin.とは一風違うのが、実はこのラストの歌詞ではないかと思う。宇宙とぼくらが溶け合っている。ぼくらの旅が宇宙に回収される。暗く星しか見えない世界であるのにもかかわらず、まるで宇宙に見守られているようにあたたかい。過去のEndorfin.の楽曲は、どちらかといえばこの宇宙とは厄介な神様のような存在で、主人公と対峙する場合が多かった。宇宙universeという理、因果律に対抗するためにまた別の宇宙をでっち上げる、それによって自己を確かめる、鼓舞する、その類が主だったと思う。それはパスカルが人間の尊厳に措定したものと同じである。自分が死ねること、宇宙が自分よりも勝っていることを「知っている」。宇宙は何も知らない。だから人間に尊厳があるのだと。*3

宇宙の不知をして人間の意義を見出す、そのような対立構図とは真逆であるのがこの「惑星トリップ」である。そこにはさびしさは存在しない。絵本を開いたように雑味のない牧歌的な世界が広がる。曲調も今までのEndorfin.とは違うが、歌詞においてもかなり異なる。それを単純な言葉の入れ替えや簡単な比喩だけで果たしているのが強い。

 

とまどうわれらをのせてめぐる宇宙は、
たとえてみれば幻の走馬燈だ。
日の燈火を中にしてめぐるは空の輪台、
われらはその上を走りすぎる影絵だ

オマル=ハイヤーム『ルバイヤート』 

 

4. Alice's suitcase

 

Arcaea収録楽曲。初出は2020年であり、「Monologue off」にてfull.ver公開となった。曲調は「Cotton Candy Wonderland」に似ている。ポップでメルヘンな世界観は通底し、場面の展開も非常に似ている(夢から覚めて終わる)。歌い方は3年分の開きがある以上、甘さ控えめになっているが、元々Endorfin.が得意としているような曲である。「Round&Round」「惑星トリップ」と比べれば割と馴染み深い。

Arcaea収録ver.と「Monologue off」収録版とで歌詞が若干異なる。落ちサビ部分で、前者では「今日が幸せなら 明日が幸せなら」となっているが、後者では「どんな結末でも 私は受け入れるから」となっている。Arcaea.verだと主人公は夢から醒めないが、「Monologue off」ではどこか夢から覚めて現実を受け入れるような形になっている。夢から現実への通り道となるのが、アルバムで追加された2番の歌詞、ということになる。

 

元々Arcaea「Alice's suitcase」:アリスとテニエルの物語も、この「Monologue off」の物語と瓜二つである。ちょうどアルバムの主人公=アリス、黒猫=テニエルと位置付けられるように。Arcaeaのアリスの物語の結末も酷似する。夢の旅路から目覚めて自分自身の記憶の欠片に触れてしまう。その結果、自分が病室にいること、訪ねてくる男がいること、そして自分自身が死ぬこと、「真実はこうだ」といわんばかりに残酷な現実が突きつけられる。「Monologue off」も白い病室から、閉ざされた空間から溢れ出た夢物語である。そして、最終曲「モノローグ・オフ」で自分自身が何者であったかについて思い出すのだ。プロットは殆ど同じである。Arcaeaを借用する形で「Monologue off」の世界観が築かれている。

 

不思議の国のアリスないし鏡の国のアリスのモチーフをふんだんに用いながら、夢からの脱却を図る。真実を知る。それが「Alice's suitcase」の全貌である。スーツケースという旅路を象徴する空間の中に、旅路の果て、広大なる宇宙が折りたたまれる。

そしてアリスの物語とはなんだったのか。一体この世界は「誰の」夢物語なのだろうか。

 

この作品(=『鏡の国のアリス』)では、事物と根源的に異なる出来事が、深層において探し求められることはまったくない。そうではなくて、出来事は、表面で、物体から漏れ出る非物体的な薄い霧の中で、物体を取り囲む体積のない薄皮の中で、物体を映し出す鏡の中で、物体を平らに並べるチェスボードの中で探し求められる。...アリスは自分の非物体的な複製(分身)を解放する。境界を辿り表面に沿うことによってこそ、物体から非物体的なものへと移行するのである。ポール・ヴァレリーには深遠な一言があった「最も深いもの、それは皮膚である」と。ストア学派的な発見だ。

ジル=ドゥルーズ『意味の論理学』

 

1番Bメロのモチーフの挙げ方は「Cotton Candy Wonderland」に似ている。

宝石のゼリー 三日月のトルテ

   子ウサギたちのティータイム

   おとぎ話の景色でも

   きっと手の届かないものはない

   (Because it's a dream!)」 

子ウサギたちのティータイムから「不思議の国のアリス」のマッドパーティを連想させる。マッドといわれる所以は「時間を殺している」(=時間を止める)と言われながらも、常にティー・タイムという時間にいて、お茶を飲みパンを食べ永遠にティーパーティを開いているからである。時間は静止しているはずなのに、物体は動き続ける。だから狂気である。

この世界の時間の在り方を、ドゥルーズはクロノス(Chronos=現在)とアイオーン(Aïon=永遠)の対比として表したうえで、マッド・ティーパーティを以下のように表す。

 

クロノスとは、唯一実在する現在であり、過去と未来を自己が向かう二つの次元とする現在である。...アイオーンとは、抽象的時期[瞬間]の無限下位分割における過去-未来であり、絶えず一回で二つの方向に分解され、永久に一切の現在を逃れる。

不思議の国のアリス』の中で、まず、帽子屋と三月ウサギがいる。帽子屋と三月ウサギのそれぞれは 1 つの方角=方向に住むが、しかし 2 つの方角=方向は不可分であり、それぞれの方角がもう一方の方角へと再分割される。その結果、人(読者)はそれぞれの方角において帽子屋と三月ウサギの 2 者ともに出会う。狂人であるためには 2 人でなければならず、人は常に 2 人で狂人である。彼らが「時間を殺戮した」日に、彼らは 2 者とも狂人となった。すなわち、測度を破壊し、特質を固定的な何かに結びつける停止と静止を削除した日に狂人となった。帽子屋と三月ウサギは現在を殺した。その現在は、彼らの間では、彼らの苦しめられた仲間であるヤマネの眠ったイメージの中でしかもはや生き残らない。しかしまた、現在は、抽象的瞬間、つまり無際限に過去と未来に再分割可能なティー・タイムにおいてでしか、もはや存続しないのである。

ジル=ドゥルーズ『意味の論理学』

 

不思議の国のアリス』で繰り広げられる不毛なやり取りこそ、まさに1回で2つの方向への無限同一性を象徴する。「アリスがもっと大きくなることとアリスがもっと小さくなることは、同時である。」「前日と翌日のジャムだが、決して今日のではない。」そして終いには能動と受動が、原因と結果が反転する。ティーパーティーに控える女王の死刑宣告のように。

このような狂気染みた世界において、表層という良識と常識が覆されるあわいを進むうちに、アリスは自己の固有名を喪失する。

 

♥はっと気づいたFeeling

   ♠︎スピード加速してゆく

   終わることのない夢の中で

   ♣︎黒ばっかりじゃつまらない

   ♦ダイヤルを回して

   新しい世界へ連れて行って ねえ

 

ダイヤルを回して新しい世界(記憶)へ行く。記憶と記憶を行き来し、旅を続ける。(ルイス=キャロルの)アリスはチェスボードという表面の上で、アリスとテニエルはArcaeaという記憶の端々をたどる中で、「Monologue off」では、深層:アンダーマリン→宇宙:コスモトリップと上昇し「Alice's suitcase」という前二者の辿った世界-意味=出来事を問う狂気-生成・自己喪失の世界と、失われた自身の記憶・現実と夢想/真実を問う世界-へと。

 

2番の歌詞は古いアトリエの記憶に2人が訪れた時のストーリーをそのままなぞる

ふっと胸をなぞる違和感 Tell me 何か足りないの

   問いかけてみても 君は黙ったまま

   全て知っているみたいに

   靡くハニーブロンド 鏡のわたし どちらが本当なの?

   仮面を纏った キミの影

   ごめんね私、真実が知りたいの

 

鏡を覗き何が真実なのか、アリス自身は一体何であろうか。問うた末にテニエルは彼女の本当の記憶を与え消滅する。病室の記憶そして死。それが真実だ。

一方で『鏡の国のアリス』は、アリスがアリスの名前を喪失していく物語である。アリス≠「アリス」という指示対象の喪失。狂ったアイオーンと共に、我々の言語運用の根本を揺さぶる言葉遊びが、まさに「意味とはどういう意味か?」、ハンプティダンプティが挑発するパラドキシカルな世界を横滑りしていく。

 

すなわち、一方で、単称固有名、一般的な実名詞と形容詞は、測度、停止と静止、現前を印す。他方で、動詞は、生成とその一連の可逆的出来事を携えて運び、動詞の現在は、無限に過去と未来に分割される。ハンプティダンプティは、力を込めて、2種類の語を区別している。「気骨あるものもいる。とりわけ動詞*4だ。動詞は、最も誇り高い。形容詞なら望むままにやれる。動詞だと、そうはいかない。しかし、ことに私に関しては、好きになんでも使える。不可入性。これが私の語るところだ」

ジル=ドゥルーズ『意味の論理学』

 

「……テニエル
彼を、呼んだ。

「私の名前は、動詞の類ではないぞ。正確に何と比較しているのか、答えてもらおうか?」と、揚げ足を取る彼。

Arcaea  Ephemeral Page 7-5

 

箍が外れた表層の冒険を経て、夢の世界を狂わせ現実へと引き戻していく。赤の女王を揺さぶりそれが飼っている子猫であると分かった途端夢から目覚めるように。一体誰の夢を見ていたのか。

海から宇宙へと垂直旅行を続けたモノローグ・オフは、Alice's suitcaseでだだっ広く平面な世界を通すことで、自己を破砕する狂気の夢を経ることで、自分そのものの違和感と、自分の内に異なる自分を見つける。(靡くハニーブロンド 鏡のわたし どちらが本当なの?)

ノローグ・オフとは何だったのか、表題曲が真実を示す。

 

5. モノローグ・オフ

 

詩的夢想はわたしにわたしのよき部分(le bien)である一つの非-我(non-moi)をあたえる。わたしのものたる非-我をあたえる。

夢想するわたしの自我にとって、世界のなかに存在しているわたしの信頼感をわたしに体験することを許すもの、それがこのわたしのものたる非-我である。

ガストン=バシュラール『夢想の詩学

 

一切が空想で彩られた航路-それが「Monologue off」であった。黒猫と共に海を潜り遊園地を回り宇宙を旅し、アリスとテニエルのArcaeaの世界を追体験した。「Alice's suitcase」で夢に対する違和感を表明した時、自分自身が本当に自分自身であるかを問うた時、元の世界:白い病室に戻り、この空想航路の意義がわかる。

 

これは主人公たる「私」が、「私」を発見し、世界と私とを恢復させる物語である。

 

私は本が好きだった

   優しく 遠い遠い場所へ この手を引いてくれた

   真っ白な病室の中 空想の世界を渡り

   時折窓辺に顔を出す黒猫が大好きな少女だった

 

私は何が好きだったのか?これをテーマにして追憶に馳せるのが「彗星のパラソル」であった。Endorfin.の作品にはナイフのように倫理的態度がちらついている。現在という時間軸で繰り返しリフレインされ更新され続ける「過去」を問いながら。しかし、モノローグ・オフでは、どの曲も今までのアルバムで共有され続けていたこの要素が希薄である。いや、描く必要がなかったのかもしれない。

いずれにせよ、「私は本が好きだった」ことを思い出す。それすなわち私の幼少時代(過去)において、本が好きな「少女」だったことである。この少女こそが「私」の、真っ白な病室の中で内奥に置き忘れていた「非-我」、原初的な自分自身、病室に入る以前の記憶をもった私である。空想で彩られた宇宙で、私は私自身に出会う。私は私を夢見ていた。

 

わたしたちの幼年時代の夢想へと向う夢想は、わたしたちの存在に先行する存在、存在する以前の存在の全展望をもたらす。

人間のプシケの中心にとどまっている幼少時代の核を見つけだせるのは、この宇宙的な孤独の思い出のなかである。

ガストン=バシュラール『夢想の詩学

 

そして、「窓辺(=外界)から顔を出す」黒猫が私と世界との紐帯を取り戻す導き手である。「Monologue off」という空想航路=夢想の旅では、黒猫は単なる小動物ではなく、この非-我、つまり忘れ去られた私そのものであろう。「モノローグ・オフ」の「私」と「君」が混濁しているのは両方とも「私」であるからに他ならない。(その意味では、「私」で完結しており、この物語はすべて「モノローグ」であるといえる。)

 

 「広がる海が好きだった

  光が消えた夜の 少し照れ屋な星が好きだった

  果てのない宇宙に焦がれ 童話の世界を夢見る

  厳しくも優しい色した この世界が

  大好きな少女だった

 

 「空高く瞬く星になって

  迷えるキミの行く先を照らす 淡い光になろう

  いつの日にか遠いどこかで きっとまた出会えるよ

  このまま少し 幸せな夢と眠りにつこう

 

「この世界が大好きな少女だった」外界を繋ぐ黒猫に導かれ、世界の一切を肯定する。アンダーマリン~惑星トリップという似姿から映し出された、かつて愛していた牧歌的な世界。幼少時代の思い出を大人になった今思い出すことで、海はさらに深い蒼色を湛え、星々は煌々と暖かく光り輝く。

そこには<世界>から投げ出されたとか、世界・超越者(=神)に対峙することによってのみ自己の永遠たるやを知るEndorfin.の姿は全く見えない。世界の形象は、われわれが内省する都度創造することができる、そんな楽観主義である*5

 

 「ありがとう 一夜きりの魔法は解けてしまった

  君はそっと扉を開ける

 

 「さようなら 夜明けのような光に導かれて

    この両手には何もいらない 全てが見えるから

    幻でも この心火照る記憶は本物

    このまま少し 幸せな夢と眠りにつこう

    眠りにつこう

 

夢想(rêveries)が終わり夢(rêves)とともに消えていく...。充実の夜は明け新しい朝を迎える。「これは名前のない黒猫と私だけの秘密」黒猫(=自己)との邂逅と別れ。いくら過去の幸せな記憶を取り戻したって、自己を恢復したって、所詮はただのモノローグ。それはEndorfin.である以上変わらない。

しかし、「世界」がありのまま肯定されることは今までのEndorfin.ではあり得なかった。ここまでの幸福論がEndorfin.にあっただろうか?

 

今や燦然と(事務所所属として)M3に君臨するEndorfin.ないし藍月なくるさん。彼らのメルヘンはその肖像にくっきりと刻み込まれている*6

 

ぼくは

世界の涯てが

自分自身の夢のなかにしかないことを

知っていたのだ

寺山修司『懐かしの我が家』

 

 

 

 

*1:時計(ないし針)のイメージは、他のEndorfin.の楽曲では「Replica」:真夜中 時計の針から 空っぽな時間がこぼれてく 止まらない時の真ん中で私は一人空を仰いだ「filament flow」:感情のループに囚われたまま 針はまた廻り続ける がある。

*2:ガストン=バシュラール『空間の詩学』「もしわれわれが詩によって、言語活動に自由な表現分野を恢復させるばあいには、化石化した暗喩の詩使用を監視しなければならない。...一切の暗喩にふたたび表層の存在をあたえ、暗喩を習慣的な表現から救出して、これに表現の直接性をあたえなければならない。」

*3:パスカル『パンセ』「人間は一本の葦にすぎない。自然の中で最も弱い存在。しかし、考える葦である。人間を押しつぶすために、世界全体が武装する必要はない。蒸気一つ、一滴の水滴があれば、人間を殺すには十分である。しかし、もし宇宙が人間を押しつぶすとしても、人間は彼を殺すものよりずっと高貴である。というのも、彼は自分が死ぬことを知っているからだ。宇宙の方は、人間に対して持っている優位について、まったく知らずにいる。」

*4:ストア派は2種類の事物を区別する。すなわち実名詞や形容詞のような物体的なものと動詞のような非物体的なもの=表面上の効果(出来事)に大別される。「切ること」「切られること」で示されるのは物体の状態ではなく、表面での非物体的な効果(出来事)である。「木(arbre)とその緑(son vert)から区別された緑化すること(le verdoyer)、食べ物(nourritures)とその食べられるという質(leurs qualités consommables)から区別された食べること (un manger)ないし食べられること(être mangé)、身体とその性から区別された交尾すること(un s’accoupler)」のように、主語(人称)や時制(過去現在未来)によらず、むしろ活用の総体を可能にする条件として措定される「不定法」(l'infinitif)の動詞によって表現される。

*5:バシュラール『空間の詩学』「われわれは「世界のなかへなげだされ」てはいない。なぜならばわれわれは現在みられているありのままの世界、あるいはわれわれが夢みるまえに、過去においてみられた、ありのままの世界を超越することによって、いわば世界を開くからである」

*6:なお、Endorfin.としての表現力ないし1曲1曲の解像度の高さに比して、なくるさんの表現力(≠歌唱力)は年々嚙み合わなくなっている。煌びやかなEndorfin.のサウンドに力負けし、誤魔化しの利かない「モノローグ・オフ」のようなピアノサウンドのみの楽曲に対しても、では伸びやかで芯の通った歌声を響かせているかというと微妙である。明らかにHorizon Claire以降歌い方を変えたが、今後の歌手活動を鑑み無理のない歌い方を模索したのだろうが、ちょっと合わなさすぎである。この状態を透明感のある歌い方と称賛し、藍月なくるの真骨頂と呼ぶような人は、まさに実利的で俗物的な価値判断しかできないと仄めかしているものだろう。歌手としての延命措置それ自体は評価するが、しかしHorizon Noteのような「若さ」以外に勝るものはあるのだろうか。もし「若さ」以外に価値があるというなら教えてほしいものである。