音楽とかなんとか 雑記帳

主に感想とメモです。

君が1人で終わりない旅に出るならどうかどうか幸運を 新世界のα 雑感

*本当に取り留めのない雑感です。

 

1. Prologue

新世界のα」 それを初めて聴いたのは2017年冬のこと。その時発売されたcomposer:竹下智博さんの「World Hitchhiker! 2」に1曲目書き下ろし曲として収録されていて、クレジットにVo. Lunaさん、lyricsにシナリオライター新島夕さんと中々豪華な顔ぶれが踊っていた、当時としてはそんな記憶しかないと思う。

 

竹下さんの楽曲はましろサマーOP. Pray's Color(Vo.はKOTOKOさん)で知り、その後も初恋1/1 ED. 「消せない気持ち」や、ゆめいろアルテット!ED. 「あるがままの小鳥より」、星織ユメミライの同タイトルOP(こちらはどんまるさんとの共作)といったエロゲを中心とした楽曲、アニメではCharlotteといったVisual Arts関係の楽曲を手がけていて、自分はそういう類の曲が好きだった。だから「World Hitchhiker! 2」で繰り返し聴いていたのは、エロゲOPEDの提供曲であり、新規書き下ろしの「新世界のα」はあまり聴いていなかった。しかも尻切れ蜻蛉な終わり方をするので、聴き終わったときのカタルシスが感じられないのも、当時の私にとって不満だった。

 

そんなこんなでこの楽曲ごと記憶の隅に追いやられて2020年となった。そこからの3,4年間というものの、ミリマスやデレステの楽曲にハマり、みっくを応援し始め、ふとした縁でEndorfin.を追いかけて、本当にこのアルバムの存在自体忘れてしまっていたと思う。(サインももらったはずなのにね)

 

そんな2020年のある日、「新世界のα」は「アインシュタインより愛を込めて」のOP1として再度世に姿を現した。シナリオは新島さん。3年前の曲とこうした機縁でまた出会い、懐かしさとともに、「すでに3年以上前から計画されていたのか」という驚きを含め、壮大な伏線回収のようなものを感じ心が躍った。「シナリオから曲を着想するのではなく、曲からシナリオを着想させる」と評されていたが、まさにその通りで曲→ストーリーという展開は珍しいと思った。「3月2日月曜日」つまり2020年にその日を迎え、当時はよくわからなかった抽象的な歌詞も、愛内周太と有村ロミの物語として肉付けされて、その全貌が明らかになる。

さすがに3.4年も前の曲であり、シナリオ制作と並行して作られたと思われるからストーリーとの齟齬はあるかもしれない。しかし「新世界のα」をEDでも持ってきており、この曲の主題が繰り返し重要な意味を持っていることを示唆させる。その意味で制作者たちの「新世界のα」に対する力の入れ方は凄まじいと思う。

 

かつシナリオを辿りながら、改めて歌詞を見つめると、新島さんの筆致の鋭さがこれでもかと伝わってくる。「新世界のα」の魅力はエモーショルで疾走感ある竹下節と、この新島さんの言葉紡ぎの巧さにあると思う。シナリオライターだからってこともあるけど、口語的で一つ一つの言葉に無駄が無く、メロディーと合わせた時にそのフレーズが軽快に、そしてダイレクトに心に届く。爽快感とともに場面がめくるめく展開し、アイこめの物語に導く。

彼のシナリオを取っても、その世界観や構成自体に賛否両論はあれど(恋カケはそれで炎上したけど)、ワンシーンワンシーンの描き方は本当に丁寧で、ダイレクトに心情の機微がプレイヤーに伝わるのは否定できないと思う。「人間臭さ」といえば野暮だけど、真っ直ぐにそれを描こうとするその態度は、この「新世界のα」を契機に展開するアイこめは勿論、恋カケや魔女こいにっき、8年前のはつゆきさくらにも貫かれているものかと。

われわれは答えの出ない問題に愚直に探し続けなければならない。ゴーギャンのいうように「われわれはどこから来て、どこに行くのか」、たとい問いが消滅したとしても、新たに問いを打ち立て問い続けなければならない。きっとそういうふうにしか生きられない。そんな気がする。

 

2. Lyrics・影

私がここでうだうだ書くのは、お世話になった方の言葉を使うなら、「新世界のα」の物語の実像ではなくである。「アイこめ」のストーリーやセリフをなるべく触れずに見ていきたいと思う。ただの要素の指摘、素材の発見を目的とするため、たどり着くところはまったくの前提・序論でしかないことは留意していただきたい。

 

構成はA→B→サビ→A→B→C→落ちサビ→coda。こんな中途半端な構成をしている曲も中々ないと思う。落ちサビからのcodaへの突然の移行は衝撃的で聴きどころ。

 

歌詞の物語のアウトラインを追うと、新世界の扉を開くか、閉じて新世界からさよならするか、後者を選択し名残惜しげに別れる、というふうに理解できる。1番Aメロの「3月2日月曜日 賑やかな夜」coda「6月◯日 月曜日 よく晴れた朝」と絵日記のように時系列を示し両端を合わせる。その中、で2番AメロBメロで本筋とは一見関係ない話が挿入される。そしてキーワードとして「神話」が登場する。これは1番サビ、2番Aメロ、落ちサビ、codaと要所要所計4回繰り返される。

 

以上のように複雑な要素を織り交ぜながら、新世界とさよならする、という筋書きが新世界のαである。

 

1番Aメロ、Bメロは「新世界のα」のプロローグである。

3月2日月曜日 賑やかな夜 ラジオに紛れ そっとビート刻む 誰も気づかない とてもかすかにそれは始まる」(Aメロ)

幾億年の時を越え その続きへ 光にのって 不思議な出来事に 僕らはためらったね 途方もないことがおきている」(Aメロ)

音波の洪水の中に 泳ぐ君を見つけたよ あわい影だけの姿 何かをもとめ 手を伸ばす」(Bメロ)

この内1番BメロはCメロと対になっている。一方でこの現象は壮大なものを認識させるが、この「あわい影」は誰にも気づかれない。つまりこの物語の当事者のみの問題として終始し外界からは閉ざされる。ここでの「君」の存在は、海に潜む魚群や宇宙を流浪する人工衛星のよう。

 

サビはこの曲の「新世界の扉を開くか」という主題を打ち出す。(2番サビは引用割愛)

新世界のドア開け 真っ白い夢にのって いくつもの海こえて 強くなれるよ 優しくなれる 誰より皆知ってる 神話のよう」(1番サビ)

「君」に対する力強く頼もしいメッセージが響く。新世界のドアを開けること、それを起因に優しさを手に入れ人々の苦しみから解放させる。一種の夢物語のようである。そしてそれは「皆知ってる神話のよう」だと。普遍性をもつ「神話」である。

 

2番A,Bは物語の筋を脱線しながら如何にも新島さんらしい場面が展開される。

デパートのすみにいる よくわからない動物 そいつがなにか 僕にもわからない 皆それが好きだから 手に入れてみた 神話みたいなものさ」(1番Aメロ)
毎晩 眠る前には 恋とか人生について語ろう なんだかんだ楽しいぜ 夢はふくらみ 歩き出す」(2番Bメロ)
2つのシーンから構成されているが、1番とは打って変わって素朴な日常である。ここだけ「新世界のα」の中でもカラーが違う。1番では当事者のみの問題を取り扱いながら、2番では周りに迎合するような様子が窺える。「皆それが好きだから手に入れてみた/神話みたいなものさ」と分けることができるが、自分でもよく理解していないものを購入した口実として「神話」を援用している。大衆幻想としての神話をここでは指しているか。ちょっとカッコつけたこと言っているのがこの曲のアクセントとなってて聞き飽きない。

 

そしてCメロで物語の終末を暗示させ、「新世界のα」の雰囲気がガラッと変わる

ある朝ふと気づく 流れるラジオの中で まどろみ続ける君が ノイズの中にかき消えた

1番で提示された「君」がここで消える。出会いと別れが夜と朝と対になっているのが、切ない一夜の物語のような心地がする。途中インストがピアノだけになっているところが物悲しい。こういった緩急のつけ方が竹下さんらしい。

 

ギターソロを抜けた先に落ちサビが出現する。1番、2番サビとは真逆の光景が描かれる。

「新世界のドア閉じ 神話を置き去りに そんなにたよりない 君が1人で 終わりない旅に出るならどうかどうか 幸運を

ここはWorld Hitchhiker! 2の帯にも付されており、アルバム全体の、そしてこの「新世界のα」のキラーフレーズである。自分もここが一番好きだ。そしてあれだけ繰り返された「神話」から離れることになる。あくまで落ちサビでの「神話」は新世界の産物であることが暗示される。あの幸せな夢物語から切り離される。現実の「ありふれた世界」に戻ってしまう。

そして「君」ともバイバイすることになる。「どうかどうか幸運を」旅に出る者に、二度と巡り合うことのない者に"Pax intrantibus, salus exeuntibus."*1と伝えること、サヨナラダケガ人生ダ。切なさは募っていく。ピアノのサウンドが全面に押し出され、codaに向けて高揚感を助長する。

 

こういった類の別れはやはり作詞者らしさを象徴する。人生でまたと巡り合うことのないほど、2人は似た者同士なのだろう。やさぐれていてもどこか正直でまっすぐであり、お互いの苦しみを理解し合うし舐め合うし戯れ合う。でも絶望的な障壁が2人を阻む、同じものを見ていたはずなのに、別々のものを描いてしまう。いやそれは必然でもある。似た者同士だからこそお互いのちょっとした差異が、究極的な断絶があることを認識させてしまうから。自責的で似た者同士だから、「相手の幸せのために」とかいう身勝手な幻想を言い訳に、それぞれtragicな結末を追いかけてしまうのかもしれない。2人はこれ以上ない理解者だが、結ばれることはない。

だからこそ、こうした断絶を契機として2人は2人にしか辿り着けない境地へとたどり着く。「セカイ系」とはまさにそういうことではないのか。そこには現実を見据えすぎたがために形而上の理論を、ままならぬ現実に徹底的に打ち立てた、あのストイシズム*2の要素が浮かび上がる。「はつゆきさくら」OP: Presto(作詞はKOTOKOさん)が「強がりな哲学者」と初雪や桜に対して読み込む所以がここにあると思われる。

 

それを踏まえラスサビでは
6月◯日 月曜日 よく晴れた朝 2人だけが知る神話が終わる 街角に立ち尽くしながら
ありふれた世界に枯れるまで叫んだよ

「神話」が2人だけのものに置き換わる。「ありふれた世界」=現実に引き戻されてしまう。ここのストリングスの甲高い響きがクライマックスであることを示す。そして

さよならα さよならα さよなら

と意味深な言葉を叫び物語はここでストップする。 

 

問題はこのαの意味である。「さよなら」が修飾しているのだからαは「新世界」の存在である。そして一般的にαはΩと対比して「始まり」や、方程式の一般解を指す。これを当てはめれば「新世界の答え」「新世界の始まり」となろうし、それを手放すことが「新世界のα」の帰結である。なるほど、確かにアイこめの物語とも整合的である。

 

しかし、同時に想起させるのは恋カケの「さよならアルファコロン」である。「新世界のα」は他ゲームのモチーフすら入れているのではないか。そうすればこの曲はアイこめだけに限らなず、もっと幅の広い物語を包摂しているのではないか。たとえば、アイこめの忍√を洸太朗と星奏の物語の反転と位置付ける解釈があるが、「新世界のα」は前作と地続きの関係にあるのではないだろうか。

 

その可能性を予期した時、まずは「新世界のα」のを追わなければならない。アイこめという具象を脇に置いて、純粋に歌詞や構成、筆致を見ていくことで、つまり一旦アイこめ発売前までリセットすることで、物語の土台を見据えること、それで初めてこの曲の位置付けを知れると思ったからだ。*3

 

その過程で、「新世界のα」に漂う新島さんらしい鬱ENDの痕跡を見出しながらも、計4回も繰り返された「神話」という特殊な層を見出すことができ、それが楽曲全体のストーリーに重要な役割を響かせていることがわかる。

そしてこの「神話」には大別すると全体にかかる「神話」(1番サビ 2番A)、二人だけの「神話」(coda)に別れる。落ちサビの「神話」は新世界の神話となるが、前者後者どちらとも取れるだろう。新世界の要素を強調するなら、前者に傾き、「君」とのさよならを強調するなら、後者に傾く。また全体にかかる「神話」にもニュアンスが多少異なり、1番サビは「皆知ってる 神話のよう」とおとぎ話のような理想論を述べるような形で、2番Aメロは「神話みたいなものさ」と皆が共有している共同幻想みたいな(本来のミソジニー的なニュアンスにおいて)「神話」をシニカルに提示する。codaの「神話」はまさしく2人だけの大切な思い出、「セカイ系」のそれである。

 

4箇所において、以上の「神話」の使い方がそれぞれ異なるのがやはり「新世界のα」の魅力だと思われる。目まぐるしくその意義を変貌させながら物語を展開し、「さよならα」の叫びで締めくくる。口語調で描かれるプロットを、竹下さんの琴線に触れるメロディラインと、爽快なアレンジで軽やかに表現され、聞き手に物語に対する高揚感をもたらす。改めて2017年に世に出た曲だが、その具体的な作品「アイこめ」によってvividに描かれ、あえてそこから離れることで新島さんの筆致の巧さや他作品を含めた(あくまで)「方向性」を見ることができたと勝手ながら思う。

 

3. おわりに

OP2: 「Answer」(Vo. ducaさん)も「新世界のα」と同じ布陣で制作されており、こちらも本当に素晴らしい。特にBメロの低音が効果的に表現され、力強くて鋭い新島さんの歌詞とマッチしていて心が躍る。同時に3年経って独立を果たして、竹下さんのメロディーの幅も格段に広がってて「新世界のα」とはまた違う様相を呈しているのが本当にいい。

また他の新島さん作詞の曲も好きだ。特に魔女こいにっきのED「永遠の魔法使い」は童貞泣かせの情け容赦ない鋭い言葉で描かれている。プレイヤーの自意識を突っつくような感じで。ファンタジー要素に彩られながらも、その内実は非常に冷徹で強い自己意識によって駆動していることが、どこか素敵なのだと。

 

ラフスケッチですが、何かの役に立てば幸甚です。(不要であれば消します)

 

ともあれ2020年は大変だった。コロナで色々と激変してしまった。でも2019年と変わらないのは、自意識が全面に出た曲がやはり好きだということか。自意識なんてそんなもの、探したり守ったりしても何の得にはならないけどね、とも感じた1年でした。

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発売日(?)に買った時竹下さんにもらったサイン。3年前?なのかな。

 

アイこめのヒロインとそっくりな名前の人が知り合いにいるからこれ書いてるときめっちゃ恥ずかしかったのは内緒

 

 

 

*1:訪れる者に安らぎを、去りゆく者に安全を

*2:例えば恋カケにストイックの要素を見出す見解として

lamsakeerog.hatenadiary.jp

作品を生み出すという姿勢はまさにストイックそのものだろう。アイこめの文脈でいうならばロミの「他者の交流を通して魂を強化すること」がそれに当たりそうである。魂の強化という概念はストイシズムの根本であるが、その手段として他者との交流に力点を置いていること、それが今作のメインになっていることは位置付け的に重要である。

しかし、私は上述の通り、ストイシズム→セカイ系の連続性を措定した上で新世界のαにその要素を読み込んでいるが、仮にアイこめにそれを当て嵌めたとしたら思いっきり矛盾する可能性がある。他者との交流による魂の強化は、そもそも君と僕で完結し社会等を徹底的に切り離すセカイ系の見方と噛み合わない。むしろセカイの袋小路から逃れる端緒を作り出す。

では辻褄をどう合わせるか。苦し紛れの詭弁だが、セカイ系の図式によって齎されるエネルギー_これがストイシズムの力点となるが、を加速させながらも同時に、その自意識の傲慢さを認識するという根本的な矛盾を孕む。そしてこの冷めた自意識が勝利し、セカイ系の枠組みは自壊する。しかしエネルギーはそのまま保たれ、それぞれ別方向に流れていく。つまり2人は別れ結ばれることはないが、それでもずっと思い続ける仲となる。こんな形ではないか。第三者には受け入れられない「神話」=メルヘンであろう。

ストイシズムの図式を援用すれば、「新世界」とは2つの意味を持つ。劇中の世界の真理と、2人が遭遇してしまったセカイと。

*3:例えば5chのアイこめ感想スレ(ボロクソに叩かれている)で「新世界のα」の「君」って周太なのかロミなのかどっちやみたいなレスがあったが、その比定ですら辻褄合わせができないのである。