音楽とかなんとか 雑記帳

主に感想とメモです。

晴れ渡る景色の真ん中で〜藍月なくるとおとぎ話の周辺〜

2014~2021年までの楽曲群を辿り、それらを換骨奪胎していく試み。結果的に一つの「物語」を描き出せたらいいな

この「物語」はフィクションです。

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Ⅰ.一目惚れの魔法と「おとぎ話」2014〜16

あるところに二人の夫婦がいた。

美しい男と美しい少女は自然な成りゆきと

いくつかの偶然を交えながら恋に落ちます。

互いが互いを好きで。

それだけで世界の何もかもは、華やぎ、優しくなり、

まるでおとぎ話のような時間が二人に訪れる。

この世にこれ以上はないというほどの美しい瞬間に、二人は永遠を誓う。

おとぎ話ならここでめでたしめでたしで終わるだろう。

けれど、人生はそうはいかない。

いつでもどこか遠くを見ていた夢見がちな瞳は

ただ、日々の暮らしの往復を映すばかり。

あれほどみずみずしくお互いに満ちていた想いはどこかに消え失せて。

二人はほとんど話すことすらなくなりました。

いつか見た、あの美しいおとぎ話の面影すら、そこにはない。

物語はどこにいったのか?

『魔女こいにっき Dragon×Caravan』プロローグより

わたしは、恋だ愛だの「一目惚れ」をした記憶がない。それは非常に意識的に生み出されうるものだと思っている。きっと運命やら因果律やら見えざる糸を手繰り寄せて、自分自身と合一し内面化することで正当化した、フィクションでしかなかった。高校時代の恋愛も究極的にはそれだった。

それは、「藍月なくる」さんの2014~2021を書き綴ることと無縁ではない。そもそもハマったのは偶然ではあるが、「一目惚れ」と後付けしたものである。世の中には星の数ほど歌い手はいるが、別に偶然耳にした曲や歌い手を忘却したとしてもいいのだ。他の曲も聴かねばならないという義務もないのである。つまり聴くも聴かぬも、運命に従うも逆らうもこっちの選択である。そうした意識的な選択の延長線上に、わたしにとっての藍月なくるの楽曲がある。その過程で、一目惚れの図式を利用しイミテーションしているのに過ぎないわけだから、結局それは一目惚れではない。

それゆえに「一目惚れより永遠を」というフレーズはわたしにとって切実な意味を帯びる。まがいものでしかなかった一目惚れを、せめて「永遠性」へと鍛え上げることはできるのだろうか。移り変わり消えていくはかない感情を、いつでもいつまでも感じることができればどれだけ幸せなのだろう。「あの時同じ花を見て美しいと言った二人の心と心が今はもう通わない」*1なんてことがあってはならないのだ。

だが、金や銀の資産価値を信じられるように永遠の愛を信じられるかといえば、そんな余裕すらないのが近代人の常であろう。街の姿が開発と解体を繰り返して変わっていくように、自らを取り巻く人間関係も、自分自身が湛えていた能力も技法も、時勢や年齢に流され変わっていく。永遠を誓ったあのカップルも、いずれ破局していく。諸行無常という「不条理」だけが常である。小さい頃読んだおとぎ話と、それを楽しんでいた私たちはどこへ行っていまったのか。

しかし、恋に全力であることで、一目惚れの刹那を愛おしく思うことで、その不条理に抗うことができるのかもしれない。ままならぬ現実から、永遠のおとぎ話をこの手に取り戻せるのかもしれない。おとぎ話の魔法を使って、はかない一目惚れを永遠へと昇華できるかもしれない。たといその永遠が自己満足の砂上の楼閣であると蔑まれても、恋する2人にとってはかけがえのないものだと信じたい。

私もおとぎ話を語ろうと思う。この2,3年でたくさんなくるさんに魔法をかけてもらったと勝手に感じている。彼女は、楽曲の中でたくさんのおとぎ話をその切実な歌声とともに語っていた。7年にわたるstorytellerのクロニクルを辿ることができればきっと、今から話す物語の意義についてわかると思う。

己は「刹那」に向って、

「止まれ、お前はいかにも美しいから」と呼びたい。

己のこの世に残す痕は

ても滅びはすまい。

そう云う大きい幸福を予想して、

今己は最高の刹那を味うのだ。

 

なぜ過ぎ去らせるのだ。

過ぎ去ったのと、何もないのとは、全く同じだ。

何のために永遠に物を造るのだ。

そして造られた物を「無」に逐い込むのだ。

今何やらが過ぎ去った。それになんの意味がある。

元から無かったのと同じじゃないか。

そして何かが有るように、どうどうをしている。

それよりか、己は「永遠な虚無」が好きだ。

ゲーテファウスト

 

・トコロクラニストとNacollection!

初めて藍月なくるさんのアルバムが世に出たのは2014年の夏コミである。タイトルは「トコロクラニスト」、この記念すべきアルバムの最初に飾られている曲が「Lovin'me」である。なお、再販時に「成長が感じられる」アルバムと紹介されている。

なくるさんの特徴である甘ったるい声とrangeの広いファルセットはすでにこの曲から始まっている。どうも音を外してしまっている感じが否めないが、逆にそのチープさに清新さや水々しさを感じられる。その意味でLovin'meの出来栄えは、ここ最近のなくるさんの曲と比べれば劣るが、非常に高いポテンシャルを秘めていることを示したのも事実だと思う。

 

fe rin ra wi dhu ra mi dwu na 君にも魔法をかけて

 どうしても叶えたいから神様 最初で最後の願い事を聞いてください

呪文を唱える、君に「も」魔法をかける、両想いになる。「あなたが好き」なんて言えそうもないから魔法を使う、神様に懇願する。甘酸っぱい片思いの瞬間を丁寧に切り取ったような曲だが、ここの部分のなくるさんのファルセットが琴線に触れる。Endorfin.の楽曲で繰り返される「切実さ」の片鱗がこの楽曲にあるといってもいい。おとぎ話の魔法はここから始まった。

 

そして2015年となり、今まで続くシリーズ「Nacollection!」が発売。トピックとなるのは藍月なくるの代表的な電波曲となる「ウサ活girlの日記」、ライフリミッツ主題歌「INFINITE DAYS」、そしてEndorfin.へと繋がっていく「コトノハ」。トコロクラニストから技術・表現力が上がり藍月なくるの歌声の原型がここで誕生したといえる。実際にウサ活girlの日記では声色の使い分けが丁寧になされ、INFINITE DAYSでは甘ったるさを湛えながらも疾走感あるメロディを歌いきっている。コトノハは前2曲と暗い雰囲気を漂わせるバラードだが、繊細さをもって歌う。共通するのは砂糖菓子のような甘く、愛らしい声。甘ったるさはリズム感と真っ向から相反する要素であり、相性の合わないことも多いだろう。しかし聞き方を変えれば可愛くも聴こえるし切なくも聴こえる。歌声それ自体は色彩豊かで曲の情緒に深みを持たせることができる。声は天賦の才であり、なくるさん独特の声の甘さや深みはきっと誰も真似できない。テクニックの問題ではない。

単純に可愛い声をもった人ならそれなりにいるだろう。それだけでも十分価値のあることだが、きっと可愛い曲しか歌えない。しかしそれ以上の何かがあれば、例えば人一倍磨きのかかった繊細さがあれば、人々の琴線に触れるような表現ができるだろう。fripSideもそうだったのではないか。

究極的には歌においてテクニックなんざ基本的なラインさえとっておけばそれで良いじゃないかとさえ思う。楽譜が読めたりその通りに音を出せたりするのは必要だが、テクニックはあくまで表現の一手段である。目的と手段を転倒させてはならない。ここに過剰表現の問題があるといってもいい。テクニックの愉悦に浸った歌った曲ほど強烈な自己愛が入り混じって聴き苦しいものはない。数々のニコニコ出身の歌い手がやらかしてきた轍である。それなら割り切ってヘタウマと形容されようがそれで良いじゃないか。

その意味において、何ができるようになるかではなく何が与えられたかが重要である。「である」ことと「する」ことが本質的に転倒する。勿論できるようになろうと努力することを否定するわけではない。与えられた才能を開花させるのも、また技術だし努力の結晶である。だが才能がなければ徒労に終わる。

元に戻ってなくるさんの歌声の特徴を整理すれば、低い声も出せる深みのある甘ったるい声と、音程の幅が広く綺麗なファルセットとなろう。そして、ある時は快活で元気な、ある時はしっとりと切ない、不定の魅力を兼ね備えたものといえる。その歌声に対峙する各々の楽曲の曲調、そして持ちうる技術との間で、ともすれば歌声それ自体においてでさえ発生する矛盾を止揚しながら、その不断の弁証法的展開の産物として、多様で豊かな「藍月なくる」の楽曲が世に顕現する。

それをよく紡ぎ出し、文学的哲学的色彩をその歌声とともに表現の極地にまで推し進めたのがsky_deltaさん、つまりこれから語る事になるEndorfin. であると思う。「コトノハ」そして同時期の曲で「Replica」があるが、より始まりを告げる曲として、そして今でもEndorfin.を代表する曲として、Horizon noteを挙げなければならない。永遠のおとぎ話がきっとその旅路にあるに違いない。ここからはEndorfin.を中核に据えながら、多様に展開していく彼らの物語を読んでいきたい。

 

・Horizon Note

Endorfin. 1st album 「Horizon Note」は金字塔とも言える作品である。ホラノとも略される「Horizon Note」、ライブの定番となった「桜色プリズム」これまた人気の高い「spica」などがある。これ以外にも疾走感あふれる「Luminous rage」や全セリフの「一粒の今」、前述の「コトノハ」、かつてインストがなくるさんのツイキャスのbgmとして使われていた神秘的な楽曲「海月」の計7曲が収録されている。

 Horizon Noteは爽やかで疾走感のあるデジタルサウンドを基調としながらも、歌詞は「君の不在」を徹底的に意識するノローグで完結している。いや、Endorfin.の楽曲は大概このパターンを辿る。

 

君はどんな色を見てるの? その瞳はどんな僕映してるのかな」

開口一番、このモノローグで始まるHorizon Noteは「君」と「僕」との感覚のズレを暗示する。そして逡巡を抱えながら

君のいない時間は廻ってく 風に乗ってふわり flying

   Ah いつまでも君の隣じゃいられないよね

   喉元で怯えてる気持ちの行方はココじゃない もっと遠くへ

   水平線の向こうまで

 とサビへと繋がっていく。「君」が目の前にいたのはAメロだけである。2番Aメロからは「一人の空気にも慣れてきけたけど」とすでに僕のもとから去っている。君の「瞳」からこぼれ落ちた物語は、広大な海原を臨む「水平線の向こう」というパースペクティブへと展開される。視点が開けていく中で自分の気持ちのケリをつけるための物語が始動する。「海を越えて今君に届けたくて」もっと遠くへと飛んでゆく

 そしてAメロ・Bメロとサビでのなくるさんの歌声の対比がHorizon Noteの爽やかさと相まって絶妙な雰囲気を出している。歌詞の心情の機微に呼応して、前者ではあの甘美な声で、後者では伸びやかなファルセットで表現されている。メロディの音程の問題でこのような歌い方になっているわけだが、まさに2015年から見られるなくるさんの歌声の多重性、その魅力が余すところなく凝縮されている。

私はこの曲からEndorfin.を知った。誰が歌っているのかが知りたくてすぐ調べたことを覚えている。もちろんそれは必然的にこの今に繋がっているわけではない。ある程度意識的に他の楽曲を聴こうと判断して、十数曲聴いた上で、本当に好きになったんだと思う。だが、初めてHorizon Noteを聴いた時、不思議な感動が過ぎったことーそれはfripSideやI've、そして数多のゲーソンの中で育った私の中で、Endorfin.は正統な後続として位置付けられるのではないかという連続性の上でーは忘れがたい。

 

「桜色プリズム」もまたHorizon noteと同程度に人気のある楽曲である。

ふわりとすれ違った透明な風はどこか君の香りがしたんだ  世界が色を変える

この曲は「君」と「世界」の見方に直接関わってる。桜色プリズムで語られるお話はHorizon noteの嗜好と重なる。桜色という色彩と桜に彩られた街、モノローグで語られる恋愛模様がこの情景を鮮やかに色付けていく。「変わり続けるパラダイム 続いてく青に反射して混じり合う
涙さえも虹に変わると信じて」(2番サビ)。「パラダイム」と形容されているあたり情景の見方と感情がどれほど密接に連動しているかが伺える。

桜色プリズムは1番A→B→サビ→2番A→B→セリフ→サビ→ラスサビ(転調)と途中の変化が激しい。特にセリフパートがこの曲をより印象深いものにしている。そして転調ラスサビ。なくるさんの甘美な歌声、春のうららかさを含んだようなセリフパートの声、可愛らしさと切なさ、春の陽気と移ろい、たった一曲の中に春をここまで艶やかに、タイトル通りPrismaticに表現しているのは本当に素晴らしい。忘れてしまった青春に一時でも浸れるのではないか。

そして転調のクライマックスに

君と二人きりの終わりをずっと探してる

と残している。「終わり」それはEndorfin.そのものを象徴する概念である。終わりがあるからこそすべては美しい。終末の美学がEndorfin.をEndorfin.たらしめている。しかしここでの「二人きりの終わり」とは何だろう。ハッピーエンドか、またその先か、人生の幕引きか、その前のサビでは「君と二人きりの未来をずっと待ってる」となっている。未来が終わりに置き換えられる。単なる言い換えか、それともアンチテーゼか。

 

spicaは夜空を見上げる僕らを主体とし、過去へと思いを廻らせながら朝焼けを待つ。孤独な夜を前提とした情景は前述の2曲とは対照的であるが、結局は自己逡巡である。後述のfour leavesと同じく音ゲーに収録されたEndorfin.の曲は趣向が掴みにくい。しかし、このspicaは天馬に乗って夜空を駆けるが如く、場面展開が美しい。ストリングサウンドがなおいっそう一夜の旅ー自分をめぐる旅ーを引き立てる。

あの日の空に置き忘れた願い事  一人ひとつ それぞれの未来へ穂を伸ばす

   笑顔に隠したその涙の向こうに 芽吹く想い強く真珠のように光って  

   明日の影が手招く今 夜が明けるよ

旅は始まったばかりである。なお一層ページを噛み締めながら物語の続きを追おう。

 

Ⅱ. ἀσφόδελοςとその周辺 2016(秋)〜2017(秋)

ἀσφόδελοςとはギリシャ神話において、死後の世界に咲いている楽園の花らしい。そして枯れることがないという。

ほんの一時期にしか花は咲かない。必ず散る運命にある。散るから美しいのか。終わりがあるから美しいのか。逆説的にこれを示してしまったのは本居宣長であろう。

 

兼好法師徒然草に、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」とか言へるは、いかにぞや。

いにしへの歌どもに、花は盛りなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには風をかこち、月の夜は雲をいとひ、あるは待ち惜しむ心づくしをよめるぞ多くて、心深きもことにさる歌に多かるは、みな花は盛りをのとかに見まほしく、月はくまなからんことを思ふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬを嘆きたるなれ。(中略)...すべて、なべての人の願ふ心にたがへるを、みやびとするは、つくりごとぞ多かりける。恋に、あへるを喜ぶ歌は心深からで、あはぬを嘆く歌のみ多くして、心深きも、あひ見んことを願ふからなり。

本居宣長『玉勝間』

 

満開の桜を、まんまる皓々のお月様を、見まほしく思うその切実さが重要である。だからこそそれらを見られない嘆きに趣があるのであって、花や月が欠けていることそれ自体にもののあはれがあるわけではない。「わびしく悲しきをみやびたりとて願はんは、人のまことの情ならめや」と続くが、それはそうだ。

なお、徒然草の一節を反駁したものになるが、議論が空転しているとの指摘もある。本居宣長の反論が反論になっていない。徒手空拳*2に終わっている。実際に兼好法師は「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」として、あくまで満開の桜や満月だけに趣深さがあるわけではないことを指摘する。

だからこそ『玉勝間』の反駁の意義は、結論よりもむしろその過程にある。それが「思ふ心のせちなる」=「切実さ」である。理想形がすでに我々の視点の中に宿っている。クライマックスが現前するその刹那、それを人々は求めている。その切実さが切実であるからこそ、報われなかったときの寂しさが強調される。いや、もしかしたらそれすらも溢血したエネルギーに変換するのかもしれない。

 

話を元に戻す。ἀσφόδελοςは死後の世界に咲く花である。白や黄色の花で草原のあたり一面を覆い尽くすほど咲いているらしい。ただしそのイメージは引き裂かれている。それは楽園(エリューシオン)に咲く花として華やかで鮮やかな印象を与え、ルネサンス期以降の詩でも好意的なイメージで捉えられる。しかし、当のギリシャでは『オデュッセイア』ではハデスの住む冥界に咲く花として暗澹たるイメージで語られる。そもそもテクストを分析すれば、ash-filled meadowと訳せる余地がある。*3また墓地などで咲いている花でもある。死後の世界はἀσφόδελοςを線対称に楽園と冥界に引き裂かれる。

 

思えば2020年の声劇モルスリウム」で出てくる想像上の毒花「モルス」はἀσφόδελοςのイメージと重なる。強烈な繁殖力で大地がモルスで埋め尽くされた世界が舞台であるが、この荒廃した世界をash-filled meadowと呼んでもいい。夜にはモルスは胞子を出し、星のようにきらめくことから、毒があることに目をつぶれば幻想的で楽園のような光景に映るのかもしれない。実際登場人物の一人がこの光景を好きと言っている。それを演じるのがなくるさんであるのだが。

 

本居宣長の語る「切実さ」と永遠の花 ἀσφόδελοςの引き裂かれたイメージはⅡ.のテーマである。それは一方でEndorfin.の物語がⅠ.にも増して広がりを見せること、具体的にはRaindrop Caffe Latteやその後のアルバムで語られることを機縁として、また一方では「終わり」、否定性が深化する過程を経て、すなわちⅢ.のテーマに、我々を引き摺り込む。異なる軌道を描きながら物語はさらに加速する。

 

・アプルフィリアの秘め事

2016年の夏コミでは、Endorfin.おいてsplit EP「sincvate」が公開された。これはⅢ.に繋がる作曲家Feryquitous氏とのコラボアルバムであり、前作Horizon Note収録のLuminous Rageのremixが注目される。

さらに2016年秋M3では、藍月なくる1st mini albumとして「アプルフィリアの秘め事」が発売。全4曲。Endorfin.としては「片翼のディザイア」が、他「エナメルの舞踏会」「paradise lost」そして表題曲「アプルフィリアの秘め事」が収録されている。ダーク&ゴシック調を中心とした意欲作である。

 

片翼のディザイアは音楽ゲーム「MUSECA」へ楽曲提供されており、ゲーソンとしての色彩が強い。またEndorfin.としては珍しく作詞がクレジットされている(本楽曲はsky_deltaさん作詞)。全体的に破綻気味の激情的なアレンジと厨二病をこじらせた歌詞、イントロからセリフを持ち込む大胆さが魅力の曲である。だがそういったサウンドにも負けないのがなくるさんの歌声の力強さ、持ちうる声の印象の強さである。

「錆びた夢の片隅に堕ちた羽根は 彼方へ霞む果てに想いを馳せ蠢く

   甘美に誘う禁断の果実が 映し(出した)楽園へと今」

このアルバムの趣向は「果実」である。「果実」=知恵の実=「りんご」、そして漂わせるEdenの存在、1曲目のエナメルの舞踏会を除き、このテーマが踏まえられている。ただし、それを楽園追放のプロットをなぞっているかというと、楽曲間で差異がある。堕ち行く者をたちを描く点では共通しているが、Edenの捉え方が違う。

 

一方「Paradise Lost」「アプルフィリアの秘め事」の作詞者は同一である。結崎有理さんである。後者は過去にブログで書いたことがある。それは引用に任せるとしてParadise Lostの方を見てみる。*4

Paradise Lostは本アルバムの中でもかなり特殊な楽曲である。デュエット曲であり、コラボ相手はsennzaiさん。なくるさんとは対照的で非常の線の細い、優美で綺麗で正確な歌声を得意とする。さらに電波チックな曲もこなせるといった表現の幅が広い歌い手である。それを踏まえると効果的に両ボーカルの差異が際立つ曲であり、それぞれの長所が映えるとともに何とも不思議な感覚を与える曲である。聴きどころはサビ部分。両者別々のパート、メロディを歌うがキッチリと合わさっている。破綻なく纏め上げる楽曲構成とストーリーとして完成された作詞が美しい。

「戒め責めるほど 熱く焦がれる想い(光さえ届かない最果てで)(狂い咲いた) 

 背徳の花は(哀れな一輪の花は)ひらひら舞い散るだけ                                     

 朝陽の昇らない 深い夜の世界で(絡みあう茨がこの未来)(苛んでも)

    楽園を二度と(失くした楽園を二度と)

    振り返ることさえ(赦さないでよ)(赦さないから)離さないで」

タイトル通り失楽園のプロットをなぞっている。「花」を恋情の象徴として「孤独な神に造られた可憐で空っぽの人形」(2番Aメロ)と対比させる。旧約聖書やミルトンの『失楽園』をケースとしながら、ロマンチシズムを称揚した形となる。原初以来の救済の姿はない。

なおこの2人は2017年にコラボアルバムを出すことになる。

 

表題曲である「アプルフィリアの秘め事」もまた趣を同じくする。タイトルは造語であるが、Applephilia、つまりappleとphiliaに分けられる。前者はそのラテン語がmalusであり、悪いを意味するmalusと字面が同じであることから、りんごは禁断の果実を表象することになる。philiaは元々はφιλία(友愛)を意味し、接尾語として執着や愛着を付け加える。

この曲の聴きどころは2番Bメロ

「この身に触れたいなら 求めて? 本能(エロス)のままに さあ跪きなさい」

甘い歌声からキリッとした格好いい歌声へ、サビへ向かってcrescendoする一瞬に聴こえるのが、色気があって良いアクセントとなっている。トコロクラニストから2年、揺籃時期から暫定的な方向性がある程度固まった時期となり、持ちうる力強さが際立つ作品だったと思う。

 

なお、このアルバムの趣向が様々な形でこれからの楽曲に不思議なトーンを与えることになる。またゴシック調のアルバムは2020年にも出されることとなる。

しかし、その雰囲気はアプ秘めとは全く異なった仕上がりとなった。この間に何があったのか、4年の歳月を歩めばわかるかもしれない。

 

 

Raindrop Caffé Latte

2017年に入り、春M3で発売されたのがEndorfin. 「Raindrop Caffé Latte」である。表題曲「Raindrop Caffé Latte」「spring for you」「春風ファンタジア」「桜色プリズム(2017.ver)」の4曲。

わたしの一番好きなアルバムである。その中でも2曲に絞ってそのおとぎ話を語っていこう。

 

Raindrop Caffé LatteはEndorfin.の楽曲の中でも特に可愛らしい部類の曲である。特に、同人声優として活躍されているなくるさんの面が一段と強調された、藍月なくる史上最大のキラーチューンと言っても過言ではない。雨降る中カフェで待ち合わせ、その感情の移ろいを描き切った、お洒落なモノローグ調の楽曲である。

「待ち合わせの喫茶店  君からのメッセージ ポケット揺らす

  『ごめんね少し遅れるかも』 雨に濡れた傘 悲しそうね

  『わかったよ』 っていつも許しちゃうけど

    たまには叱ってみた方がいいのかな?

遅れる君に対してではなく傘に対して向けられる「悲しそうね」。視線がケータイからずれる。雨はモノローグへの動機である。モノローグはモノローグで止まり行動へと移らない。「○○した方がいいかもしれない」行動へのためらい意志と、来ない君へのため息が雨音に滲む。

向かい側は空っぽの席 雨音ノイズが心を埋める

 一人ぼっちのこの時間ごと砂糖と溶かして飲み干せたなら

待ちぼうけの時間は長く感じるものである。ここでも雨音はモノローグへの契機である。私はカフェラテに砂糖は入れない派だが、ほろ苦いひと時を甘い砂糖で溶かせたら心も晴れ晴れするに違いない。けれども仮定法で止まる。気分は晴れないまま雨粒と共に思いは募っていく。

Raindrop Caffè Latte 一人君を待つ時間も幸せのスパイス

   …なんて浮かれてるかな

   Hurry up! Caffè Latte 冷めてしまう前に早く!

   ほろ苦くて甘い世界をきっと教えて

幸せのスパイス、なんて美化できるほど浮かれている人間ではない。待つ時間も楽しみであった時代がかつてはあったのかもしれない。待ちぼうけがデフォルトだった時代が。

しかし都会人、いや近代人にはそんな余裕はない。待ち遠しさに恋焦がれる、そんなメルヘンは真正面から信じるほど夢見がちではいられない。この主人公の心情は、君を待つ(あえていうと)純粋持続 la durée pure*5たる時間ー少なくとも物理的空間的な時間とは異とするーの中で一人相撲をするかのように意識と意識が打ち消し合い、行為を未完了の状態に押し留める。いや、その意識の動きが近代のメルヘンと呼んでもよい。近代人は否定神学的な方法を取ることでのみ、メルヘンを味わうことができるのだと感じる。

「滲んだ窓の外 駆けてくる君と目が合う

   鼓動が高鳴る 一言目はなんて交わそう?

言葉を考える。「大丈夫だった?」やら「遅えんだよ」やら「一体何分待たせるの?」だったり。しかし「なんて交わそうか」と自分に問いかけたところで物語は終了し、誰かが喫茶店に入ったと思わしきドアのベルの音が鳴る。どぎまぎした感情の流れは、その時間と共にRaindrop Caffé Latteの3分10秒の中に折りたたまれていく。

 

・春風ファンタジア 

然れども均しく知るべからざるに于いては、則ち亦た安くんぞ此の花の忽然として吾が目前に在らざるを知らんや。 

 張耒『張耒集』

 

春風ファンタジアは前曲と対照的に春の別れを歌った曲である。Endorfin. 春の中では桜色プリズムと双璧を成す美しさがあり、彼らの魅力が詰まっている曲であるのでここでも紙面の都合を無視して書いていこう。

Endorfin.の中でも初めてのセンチメンタルな雰囲気の曲である。不思議なことになくるさんの歌声が可愛らしくもあり非常に切なく聴こえる。特に落ちサビでは、別離の悲しさを胸に新たな世界へと歩みを進めるその余情が、適度なエモーションを備えて表現されてある。声色を極端に変えている訳ではない。だから不思議である。

やはり同人声優だからか。特にこの時期は音声作品への出演が多い。そもそも様々な役を演じてきたわけだから、そこら辺の小回りが利くのではないか。演じ分けの器用さが歌にも表れているということではないか。しかし単純に同人声優としての才覚の当て嵌めで、その歌声の魅力を評価し切れるとは思えない。

潜在的な能力は非常に高い。声質も天賦に留まらない。だが注意したいのは、本人はプロではない。不十分な箇所は幾らでもあると思う。引き出されてない能力もこの2017年にはまだあっただろう。

いや、だからこそ、プロの領域では絶対に出現することのない歌声が、殊に同人音楽では生まれると信じたい。プロの領域での価値観を同人に当てはめるのはナンセンスである。そんな事は合唱なりミュージカルなりに任せるがいい。同時に逆もまた然りで、同人がプロの歌声に追従したり流行りの趣向に迎合することも、ナンセンスであることを免れない。

 

曲の中身に移る。

「巡りゆく季節の隅っこで

   幾つもの出会いと別れを繰り返し 大人になってゆく

   ちゃんと笑えているかな

   頬を掠める春風がどこか懐かしくて振り向いた

   もう迷わない 君と過ごした日々を胸に

邂逅と別離の中で様々な希望と絶望を繰り返しながら大人になってゆく。純朴で幸も不幸も皆吸収するような青春時代から大人へ、感性がすり減って目の前にある小さな出来事にすら感動を覚えなくなる。「ちゃんと笑えているかな」未来の自分へと問いかける。まさにこれから社会人になる私にとっても切実な問いである。

そして春風が記憶を呼び覚ますトリガーとなる。雨→淀みない意識の連鎖がRaindrop Caffé Latteであるのに対して、春(春風)→君との記憶の連鎖が春風ファンタジアである。

神様は僕らを切り離して別々の線を描いた

   いつかどこか遠い空でまた出会えるから

Endorfin.の物語に登場する神様は決して救済のそれではない。主人公の自意識と真っ向から対立する存在である。

舞い上がる花びらに微笑む横顔

   ここにはいない君を映し出す桜

桜が何らかの不在を浮き彫りにする。君の幻影をそこに映し出す。舞台装置としての桜。きっと君はいなくて桜だけが存在するのだろう。しかしその舞台装置も瞬間の中でのみ顕になるのではないか。桜もまた君と同じく幻影であることは免れないと思う。

近代とは豊富と混乱の時代である。人生をかけても全て見渡せないほど大量の物質と概念が目の前にある。私たちはその中から「選択」して対象を認識し視野に取り込んでいく。そのように意識は流れる。「選択」されなかったものは、彼/彼女の世界に存在しない。

桜は木である。そこに植えてある限り桜が存在する。しかし私たちがそれが桜だと気づくのは春の季節、それも花びらが舞ったり散ったりする瞬間である。斜め見ていたら花が咲いていることにも気づかない。花びらが視線に入る、上を見上げる、その木が桜だとわかる、このようにして人々は、桜を自分自身の内部に投影することになる。生活風景に一々気を止めても仕方がない。「あ、あそこの河岸に桜があったんだ」生活感情なんざそんなものである。

君の不在を告げる桜もまた、春という季節、もっと突っ込めば春風が運んできた瞬間の内に顕現する。桜は象徴である。国家主義の文脈にあらずともそれは象徴である。映画・小説:『秒速五センチメートル』*6が一番わかりやすい。1話「桜花抄」では岩舟駅を舞台として雪の中に忽然と桜の花が映りこむ、3話ラストの踏切シーンでは満開の桜が描かれる。前者ではキスシーンが描かれ後者では両者が踏切をすれ違うシーンが、つまり別れが描かれる。踏切で二人がすれ違う、しかし渡りきった途端、電車が通り過ぎてお互い見えなくなってしまう。桜の花びらが吹雪のように舞う。出会いと別れ、そして感情の昂りを桜が演出する。春風ファンタジアもまた、秒速五センチメートルと同一線上にあると言ってもいいのではないか。なお、舞台となった岩舟駅と参宮橋踏切に、桜は存在しない。やはり桜は象徴(symbole)である。

晴れ渡る景色の真ん中で 春風と夢を見ていた

   こんな僕をたぶん君は「情けないな」って笑うだろう

   ここはきっとスタートラインで

   踏み出した先に待つのは新しい世界

   君だけのいない世界を

桜色プリズムは「二人だけの終わり」であったが、ここではもう君はいない。君はいないんだ、過去に浸ってはいられない。でもどこかで再会を期待しているのだ。 

報われないことへの嘆き、その「切実さ」が窮まった時、もしかしたら近代の時間・空間軸に風穴を開け、超越した世界へと導く通路が開かれるかもしれない。きっとそこには永遠に枯れない桜があるのだと思う。ありもしない出来事を願いながら、雑踏の中で、嘘の桜が見出される瞬間を信じて。

 

桜色の都会で今 時を止めて踊りだす
追憶のステージを走り抜けるしなやかさで

花たん「Brand new voice」

 

・プレゼント Last words 

2017年のEndorfin.はここで終わる。しかし一方でなくるさん名義の楽曲は増大する。ポップスからロック、EDMまで幅広く歌い上げその才能は開花する。

 

Raindrop Caffé Latteと同じ時期の楽曲として捨てがたいのがFROZEN QUALIA「花束」より1曲目「プレゼント」である。清楚で爽快、恋が咲く季節を高らかに歌い上げる。

桜の恋心君に届けよう プレゼント  数え切れない程の青春を

そこには目映くて鮮やかな青春が広がっている。美しい記憶の花束がなくるさんの声で編まれていく。小っ恥ずかしくなるほどの可愛らしさとちょっとしたぎこちなさ、全てが青いオリーブの実のように若々しい、一つの到達点がここにある。喪われてほしくない純真さをぎゅっと詰め込んだ「プレゼント」である。

 

春風ファンタジアとプレゼント、想いの刹那が桜に仮託される。楽園に咲く枯れない花:ἀσφόδελοςとは真逆、春の一時期にしか姿を見せず、吹き抜ける風とともに去ってしまう幻影を見出す。

 

また同時期に初のゴリゴリのロックアルバムとして、Imyさんとのコラボアルバム「Last words」が発売される。確かになくるさんの力強い歌声は、激しい曲調にも合う。可愛いだけの声だったらギターサウンドに負けてしまう。それを凌駕する程のパワフルさが歌声に宿っていなければならない。今までポップスで主に活躍していたが、ここに来て楽曲の幅が大きく広がったと言って良い。なおその中でも「生命の灯火」が一番エモーショナルである。「生死と存在証明」という決して明るくない残酷な世界観を直線的に描き切る。多少説明口調で修辞も何もないのが癪だが、テーマ性は明快である。詩を単純化しても声やサウンドが冴え渡れば、生き生きとした格好良さは残る。音楽としては大成功である。

 

なお、2018年には「残照のレゾナンス」2019年には「Meteora」を発表している。Last wordsと同じ趣向、世界観を共有するので上記の説明で差し支えないだろう。付け加えるならばサウンドがシャープになり先鋭的で攻撃的な仕上がりに移行しているくらいか。特にmeteora収録曲「Fade: Alone」は退廃的でやさぐれてあり、このような要素はlast wordsには前景化されてない。なくるさんの歌声、その不定形の魅力が大きく旋回するのもMeteoraの頃、2019年末である。

 

・Soleil de Munuit 知らない世界の境界線

2017年秋には「Soleil de Minuit」「知らない世界の境界線」が発売される。前者はsennzaiさんとのコラボアルバムであり、後者はヴァイオリン奏者で作曲者のミナグさんにより製作されたアルバムである。

 

Soleil de Minuitの表題曲「Soleil de Minuit」は文字通り「白夜」という緯度で限定された場所、時にしか起こらない特別な天体現象をバックとして、その特別な瞬間に二人の再会を重ね合わせる壮大な曲である。二人は太陽と月に仮託される。「朝焼けが黄昏を染めていく」非現実的な光景の中に、本来ならば出会わない二人が巡り合う。

また二人笑えるまで その季節(とき)を迎えるまで 愛してる

おはよう」「おやすみ

天体を仮託しながらもラストは非常にシンプルで日常的でありふれた挨拶で〆られているのが作詞の妙である。なくるさんが歌った曲の中でもトップクラスにロマンチックであり綺麗な曲であると思う。

 このコラボアルバムの起点となるのが前述の「paradise lost」である。両ボーカルの差異が際立ち、それぞれの長所が映える。これはもう一つのツインボーカル曲「Rare Checkmate」でも同じである。Sennzaiさんのボーカルの下地になくるさんの個性的な声が挟まり、怪しい魅力を放つ。ボーカルの技術に優劣があるのは否定できないが、そんなことを指摘するのはナンセンスである。なお、この作曲者であるはるなばさんは、2018年に奇妙な楽曲を生み出す。

 

もう一つの「知らない世界の境界線」も独特な魅力を放っている。「チョークのかけら」「スケッチブック」「知らない世界の境界線」の全3曲。Horizin Noteで聴いたことがあるようなハイトーンボイスが冴え渡り、アルバムの世界観を丁寧に描きとる。

 

少しだけ大人になった私が 幼かった私と重なって あたりまえの日々を探してしまう... 戻ってはこないけれど また明日って言えるなら...きっと

Endorfin.に似た趣向が提示される。過去の自分と重ね合わせ、青春の一ページへと記憶の旅を始める。チョーク・上履きの音・夢を描き合ったスケッチブック、学生生活の何気ない表象が、そして学生生活が終わった者には二度と現れない、そういった物質的な素材が生々しく感情をー叶わない明日への淡い期待と憧憬を呼び覚ます。特に「スケッチブック」は想い人か、その相手とのメッセージ交換がスケッチブックに書き記される。そしていよいよ返事が返ってこなくなった時、戻ってこない日々を認識することになる。

返事が返ってこなくなった

   その意味を知ってしまった

   引き出しに残した 叶えたい日々が

   まぶたの裏側に 映り続けてしまう

 

そして表題曲「知らない世界の境界線」で明るい雰囲気へとガラッと変わる。モチーフの使い方、曲の展開、光景がありありと浮かんできてこのアルバムの「物語」を効果的に聴き手に伝えられていると思う。その点はEndorfin.の楽曲に似ている(Endorfin.は衒学的で抽象的だが)。

いつからか 桜の様に散る

   当たり前の日々を探し求め立ち止まる」(1番Aメロ)

手のひらに 花びらが舞う

   こぼれ落ちてく  あの日の影

   もう帰れない返らない 誓って風が凪いだ」(1番Bメロ)

ここでこの楽曲のコンセプトが明示される。桜が「当たり前の日々」のアナロジーとなっている。当たり前の日常ながら、未来の自分にとってはかけがえのない「祝福」のような時を、桜は魅せる。しかしそこから決別して知らない世界へと舵を切る。桜に対する捉え方は「春風ファンタジア」と軌を一にするが、知らない世界の境界線は明確にその世界から縁を切る。この楽曲に登場する「桜」や「制服」が時の流れを忍ばせる。情景もありありと浮かぶし、これらのモチーフの使い方は非常にうまいと思う。

「決して悲しいことじゃなくて 見たことない景色が

   広がるのだろう そうでしょう」

「大人の夢が見せるまだ知らない涙

   空を仰ぐ季節に明日を想いたい」(Cメロ)

Cメロの風に乗って舞い上がるように流れるメロディが非常に美しい。なくるさんのファルセットが綺麗に伝わり、桜の季節=喪われた日常から離れることが「悲しいことじゃない」と、Cメロの最初に歌われることで印象に残る。ドラマチックな展開を組み立てて歌に乗せる、これが難しい。

そしてこの歌の主人公は「何時から高く遠く見渡せてたのだろう」と思う。気が付いたら身長も伸び歩幅も伸び、見える世界が広がっていた。今までそれが世界の全てだと思っていたことが、成長するにつれ小さな箱庭のように思えてくることがある。その時になって初めて時の流れを感じるのだ。そこに喜びと期待を寄せるのが知らない世界の境界線であり、そこに残酷さが滲み出ているのがEndorfin.の諸楽曲である。

 

・Nacollection!!

そして2017年の締めとなったのが「Nacollection!!」(いわゆる「なこれ2」)である。全10曲。まさにCollectionということで様々な作曲者が携わり、ごった煮の様相を呈している。特に飛躍的になくるさんの楽曲数が増えた年でもあり、今まで辿ってきた曲が、河川が合流し大河となって海に差し込むように、一度このアルバムで合流する。

最初を飾り、躍動感溢れるはるなばさん作曲「星空のアナグラム」、中間部のスキャットが楽しくお洒落で可愛らしい、A_than_lilyさん作曲の「その名はRendezvous」、Endorfin.名義で再度収録されることになる「ガラスアゲハ」、この3曲は2019年のなごりんライブで生歌が披露された。そのようなキャッチーな楽曲に他にも、今までのなくるさんの印象を一変させるほどかっこいい「ジョーカーパレード」や、ミナグさん作曲の「テアトル・エンドロール」がいいアクセントになっている。

 

春の調べとともに物語は大きく前進し、出会いと別れを繰り返してここまで辿り着いた。桜に込められたメッセージは、その刹那を一所懸命噛み締めて生きてきたことに対する祝福。きっと切実でいることが赦されるのが「青春」なんだと思う。

一先ずⅢ.で寄り道をしてからEndorfin.の物語を追いかけてみよう。きざはしを降りて楽園の最深部へ。

 

Ⅲ. クラリムステラとポストモダンの回廊 2018

人類が誕生するよりもはるか昔

地球上に現れたクラゲ

時の流れにのみこまれることなく

ゆったりと拍動する柔らかい生命

ここは悠久の時を超えて

ふわふわと漂うクラゲの空間

海月という宇宙です

江ノ島水族館より

藍月なくるの楽曲群を紐解くと、ロックやEDM等楽曲ジャンルはさることながら、多様多彩な趣向ないし文体によって編み込まれていることがわかる。 先ほど確認した「なこれ2」はまさにその「糸」で編まれた一つのfabricと言ってもいい。

ところで、この多様な路線をどう分類化をしていくか。今まで、この物語を騙るためにまずは楽曲を聴いてみて、そこから感じ取ったものを綴ることによって1章、2章と歩みを進めてきた。理念型を導入して、この複雑な楽曲群を、同人だからこそ成立し得たこの百花繚乱の縮図を整理して像を浮かび上がらせたい。そもそも同人声優としての作品も多い。プリズムのように見る方向から色彩が変わり、一方向からはとても全ての作品を説明しきれない。何を理念型に据えて整理するか、分析概念の導入は情報としての価値を付加する。私が見てきた「物語」に意義を与えることにもなろう。

まず、ゲームソング「的」楽曲か純粋な同人音楽かが一つの試金石となる。これによりEndorfin.やその他EDMは前者に、ロックやポップスなどは後者に値する。「的」とするのは収録されていない曲も内包するため。およそコンポーザーとしてゲームに自身の楽曲が採用された経験のある人物が関わっていれば、ゲーソンといって差し支えない。たとえばEndorfin.であればspicaやfour leavesが採用されているが、Luminous Rageは採用されていてないといった具合に。その観点からしたら、先述のSoleil de Minuitも前者に該当する。なくるさんを一躍著名にしたのは音ゲーであることを鑑みると、自然と意識される分類になるだろう。(音声作品ではとみみ庵が一番影響力が高かったと思われる)

一方でそれは作曲者の棲みわけから演繹して分類化しただけであり、特に言葉で説明しなければならないブログといった媒体では効果的に活用できない。そこで作曲の反対の極に作詞を配置して、各々の文体・エクリチュールの差異によって位置付けを図っていく方法が考えられる。それぞれに意識しているテーマは全く異なるのであり、作品の趣向にも反映される。例えばEndorfin.の文体・エクリチュールと有理さんのそれとはかなり異なる。他方で、知らない世界の境界線とは近接している。しかしそれでもモチーフの使われ方は異なる。

しかし、これもまた統一的な像を余計見えにくくするため、ややこしくなる。それを解消するには枝葉を切り落とすしかない。なくるさんの楽曲群において、特に影響力があってその全体性の中での重心となるべき楽曲群を見出すしかない。すなわち、同一作詞者の楽曲数の量である。多数の作詞提供を行っているのは、Endorfin. の二人、Feryquitousさん、結崎有理さんであろう。また電波曲という特殊な層の形成にはA_than_lilyさんの役割が大きい。なお前2人の楽曲はまさにゲームソング「的」楽曲に位置付けられるが、後2人の楽曲はゲーソンと純粋な同人音楽との2つの領域にまたがる。

 

話を本題に戻す。Ⅱでは主にEndorfin.の物語を読み込んできたが、ⅢではFeryquitousさんの生み出す世界観を素材とする。そして一つの終着点にたどり着くだろう。海の底、冥界という楽園に。

 

・乖離光 Identism 

Feryquitousさんの楽曲は謎に包まれている。たとえば2017年のSoleil de Minuit収録の「乖離光」や「緋の青」は像が浮かび上がらない。いやそういった類のテーマを表出することさえ拒否するようなエクリチュールである。破壊的で色彩を持たない。ポストモダン建築を仰ぐかのように不気味なモニュメントとして氏の楽曲は屹立する。存在しない熟語まで入れる。

非対称 動転 利を片す

   機会性 後退 個を立てる

   消化 異端的にパラグラフ跨げ

   響禍 面倒なグラフ

   数え間違った数だけ意を開せ

   後天的に乖離する障害

   啄み 先離す」(乖離光 1番Aメロ)

ある程度の道筋を立てることはできる。歌詞カードを覗くと明らかに漢字がおかしい箇所が散見される。例えば「意を開せ」は「意を解す」のであるから誤字である。「響禍」もまた存在しない言葉である。本来は「凶禍」にでもなるのだろう。聞いただけでは何が書かれているか想像がつかない。そしてパロール自体も何かを意味するような代物ではない。シラブルとシラブルが私たちのそれとはおよそ違う、聞いたことない組み合わせで構成される。言葉になっているかどうかすら危うい「音」まで解体させていく。

 

もちろん一定のテーマ性をもって語られることもある。それが2018年「Identism」である。全5曲。質問箱でも明かされていたが「エゴイスム」がテーマとなる。が、それがわかったとて難解さは変わらない。また、twitterでの紹介では「普段の彼女の持つ表情とは違う、鋭い攻撃性、多様な表情」と書かれており、これまでのなくるさんのアルバムの趣向とは全く違う。このうち鋭い攻撃性は4曲目「LHAHEIN」で表れるが、歌い方は昨年なこれ2の「ジョーカーパレード」に近い。

全5曲ともそれぞれ異彩な雰囲気を醸す。1曲目「Lost per Minite」はPVが公開されているが、抽象画を見るような光景が広がる。2曲目の「レインライン」は、1曲目の勢いを整えるかのようなミドルテンポでお洒落なテイストになっている。歌詞カードのアートワークにも拘り抜かれ、背景は太宰治の『人間失格』である。また比較的他の楽曲よりも風景がつかみやすい。そして表題曲「Identism」「LHAHEIN」と激情的な楽曲が並び、感情が痺れてモルヒネのような浮遊感を漂わす「Trip Call」で締められる。

 

・JelLaboratory エーテル Cadeau de Dieu

Identismは無機質な素地に「自己」という徹底的に異質な物が建てられたような「引き裂かれた」イメージを、ポストモダン的な趣向を漂わせている。一方でまた別のイメージを使いながら、退廃的な世界観を広げたのが「JelLaboratory」である。

JelLaboratoryに共通するテーマは「クラゲ」である。クラリムステラもそれが由来であり、Endorfin.の楽曲にも「海月」があるほど、なくるさんとクラゲとの関係は深い。筆者もクラゲが好きである。しかし、クラゲとはなんだったのだろうか。

人類とその他の動物との関係性は深い。二者を区別するのは例えば道具が使えるだとか労働の発生だとか、まあそんなことはいい。人類はその部族生活において、特定の動物をその祖先に繋がる「トーテム」象徴として見なしてきた。また、文明社会においても一族やその権威を動物が表象した。例えば、徳川家の武威の象徴として、二条城の壁画に鷹が描かれ、オスマン帝国ではスルタンの権威をチューリップが表象し、アッラーや三日月と結びついた。人間以外の動植物が人間の何かしらの社会的地位を比喩するものとして機能してきた歴史がある。

しかしクラゲにはそのような意義はあったのだろうか。例えば扇子の骨をクラゲのそれとして揶揄する話はあるが、少なくとも上記の鷹などの動物のようには表象しない。人間の歴史からは疎外されてきたのだ。人類よりもはるか昔から地球上に存在したのにもかかわらず。クラゲはわれわれの営みの間をすり抜けるようにして仄暗い海を生き続けたにちがいない。水族館でクラゲがブームになったのも、それが「癒し」として注目されたのもここ最近の話であり、特に部族社会から文明社会に至るまで、日常生活では関わってきたとは思うが、少なくとも何かしらの意味をもったことは一度もないと思う。

だからこそ、クラゲは人間の歴史に絡め取られなかった生物という点で非常に異質な存在である。毒を持ち他の生物を苦しめるが、殆どが水分で構成されており、意志もなく流れに沿って海を漂い命を終える。その時姿形を残さないという。その生きた証さえ大海に溶けて消えてしまう。気が付いた時にはもうそこにはいない。その意味で「死」のイメージを纏い歴史の中からすり抜ける。

クラゲが表象する「終焉」のイメージ、それは弁証法的発展を遂げた文明を「解体」させる毒となりうる。その意味でIdentismとは違うポストモダン的な雰囲気を醸し出す。ただ文明がクラゲの海に飲み込まれるとしたら、クラゲの宇宙が広がるとしたら、それはそれで美しいのだろうと思う。JelLaboratoryは、クラゲによって、人間の持つ恋情が死とともに絡め取られて海底深くの冥界ー愛と幽界の終着点へと連れて行かれる、そんなストーリーなのだと思う。

 

特にその中でも「エーテル」と「cadeau de Dieu」は強烈な印象を放つ。前者は先程と同じくFeryqitous氏の作曲で、作詞はなくるさんとの共作、後者は作曲がはるなばさんで、作詞は有理さんである。

 

エーテルはJelLaboratoryの中でも特に際立った曲であり、PVもある。特に作詞になくるさんが関わっている点が大きい。サビの畳み掛け、激情的で何処か悲しいなくるさんの歌声、そして海の煌びやかさなど一切排斥したような鋭く無機質なサウンド、痛切な想いが聴く者の心に打ち寄せる。

「優しくすぎるこの日々に

   蓄積する傷と違和感 赤銅の糸 

   日が沈み朝日が昇るまで 嘘を絶やさないで 

   どちらの君も君なのでしょう」

全て信じていたなら 知らない

   知るはずない鍾愛を汲めたの

   盲目である事だけが望みなら 君の声を

   腕を此処で捨てよう

赤銅の糸とはこの楽曲のモチーフであるアカクラゲを示唆する。強力な毒をもっており、それが歌詞にも反映される。遠泳ではこのアカクラゲ、刺してくるので非常に嫌われているがその姿は優美であり傘から伸びる褐色の線が不気味さを醸し出している。クラゲの二面性ー優美で神秘的な姿と触手から放たれる刺胞毒が歌詞で顕になっている。

Aメロでは非常に柔らかく表現するが、「嘘を絶やさないで」の語尾が不安を纏う。そして攻撃的なサビへと転換していく。そしてなくるさんの歌声としてはCメロが非常に綺麗である。ここまで低い音を響かせられるようになったのも成長と言えよう。

聞こえるか 僕の痛み 血流が 君を奪っていく

   もう一度生まれる事が出来たなら

   僕は君の一部でありたい

表現の幅の広さはこういった落差の激しい曲で発揮される。Cメロ最後の歌詞は全曲「Satellite connect」の「I am part of you」と繋がる。なお、エーテルは2019年のなごりんLiveでも披露され、やはりCメロの部分の表現が息を呑むほど格好良く、歌っている姿が非常に美しかった。

Cメロから水音を置いて静まり返った後ラスサビへと突入する。

溢れ出す 錯乱の花 愁いの君

   赤い糸が引き千切れる

恋の赤い糸を赤銅の糸とでイメージを重ね合わせるのは説得的である。またここの部分のなくるさんの歌声がかなり攻撃的で先鋭的で良い「アクセント」となっている。この楽曲はドラマチックに展開し、結末まで飽きさせないようになっている。そして最後の

もう一度君に愛されたかった

は切実な思いが組み込まれて印象的な〆になっている。なくるさんとferyquitousさんとの共作だが、この楽曲のモチーフないし原案はなくるさんだろう。人の琴線に触れる、言葉の使い方がされてて非常にその面でも才覚はあるのだと思う。ただ使いやすそうなワードを盛り込むだけでは平面的で印象に欠けてしまう。ただ過激な言葉を連ねたところで、その暴力性は去勢されたものになるだけだ。きっとそれ以前に、もっと感情の機微をストレートに伝える言葉があるのだと思う。感情に堪えるだけの言葉が。きっとそれをEndorfin.は、なくるさんを含め持っているのだと。

 

一方の「Cadeau de Dieu」はエーテルとは真逆で落ち着いた曲である。しかし、イントロからのキーボードのリフレイン、シンセドラムの拍、水音のSEが奇妙に絡み合い、まるで暗い暗い海の底な光が差し込むかのような、神秘的かつエーテル以上に不気味な曲調に仕上がっている。恋情と死だけが描かれ、生殖と死という極限まで単細胞的な生物観が横たわり、その影にクラゲを、クラゲだけを暗黒の海に見つける。文明が全て巻き戻されたような、むき出しの生が描き出され、近代文明を破砕するようなエネルギーが淀めいている。その意味でエーテルよりも過激といってもいい。

 「Cadeau de Dieu 視界霞んで

   Cadeau de Dieu 指が震える

   Cadeau de Dieu 耳を塞いだ

   Cadeau de Dieu 呼吸が止まる

Cadeau de Dieuとは神様からの贈り物の意。それが何なのかは明らかにされないが、恋心という感情や死が込められているのだろう。Cadeau de Dieuのリフレインとその帰結にある呼吸の停止=死、この描き出し方が有理さんらしい。

白を身に纏い 黒のヴェールで棺を眺める

   いつか眠る日は多分遠い未来

この楽曲のモチーフはアトランティックシーネットルである。これまた猛毒を持つが、天女のように触手が長く伸び、アカクラゲ以上に綺麗な姿をしている。そしてこの「白」はウェディングドレスを表している。人生最高の幸せな時が死と隣り合わせになっているのは不思議に思われるかもしれない。ただし最後のパートで意味が明らかにされる。

苦しくても愛してるの 一瞬でも幸福なの 

 私の生 最初の意思 私の全 最期の恋

死ぬ前はどうやら気持ちいいらしい。わたしは勿論その経験はないのだが、どうやらこの歌詞はその観念を下敷きにしている。ただし訳のない話ではない。

 

生命体間の不連続性と連続性との次元で、有性生殖に現れる唯一の新たな事実は、精子卵子という生殖細胞、この二つの微小な生命体の融合である。とはいえ、この融合は根本的な連続性を完全に顕現させているということなのだ。じっさい、この融合において明らかになるのは、失われた連続性が再び見出されうるということなのだ。

死が性の危機の結果になるのはきわめて稀な場合だけだ。しかし...最後の絶頂感に続く衰弱は「小さな死」とみなされているほどである。...私たちは、生命体の繁殖が死と連帯していることを断じて忘れるべきではない。

人間がこの無秩序(=性の無秩序)を体験して死を認識するようになると、この無秩序の暴力は、死がかつてこの人間に明示した深淵を、この人間の内部に再び開くのである。(中略)...性の快楽は、死の不安のなかにあると、いっそう深くなるのだ

バタイユ『エロティシズム』 

Cadeau de Dieuはまさに連続性を恢復する物語であり、その連続性=死の中に個体は消えていく。生殖を通じて悠久の時を刻み、生命は皆海へと帰っていく。目の前に広がる海は永遠だったのだ。そこに楽園があったのだ。

また見付かった。
何がだ? 永遠。
去ってしまった海のことさあ
太陽もろとも去ってしまった。

見張番の魂よ、
白状しようぜ
空無な夜に就き
燃ゆる日に就き。

人間共の配慮から、
世間共通の逆上から、
おまえはさっさと手を切って
飛んでゆくべし……

もとより希望があるものか、
願いの条があるものか
黙って黙って勘忍して……
苦痛なんざあ覚悟の前。

繻子の肌した深紅の燠よ、
それそのおまえと燃えていりゃあ
義務はすむというものだ
やれやれという暇もなく。

また見付かった。
何がだ? 永遠。
去ってしまった海のことさあ
太陽もろとも去ってしまった。

アルチュール・ランボー「永遠」(中原中也訳)

 しかし、連続性へと投げられた、破壊的で蠱惑なエネルギーは何処へと向かうのだろう。

 

Ⅳ. Aufschwung 2018〜2019

Ⅲ.ではポストモダンの回廊を下って海という冥府を、永遠性のたどり着く場所へと目指していった。一方Ⅳ.は上空を目指す。果てのない大空へと羽ばたき様々な物語をたどろう。Ⅲと同時期でありEndorfin.の楽曲がM3でも人気になり始めた頃である。実は筆者はこの時期にEndorfin.を知った。ここではAlt.Strato、純情ティータイム、そして大人気を博した「LOST IDEA」をメインに取り上げ、またエロゲソングでも良曲が誕生したので、(Endorfin.を除き藍月なくる名義の曲ではこれが一番綺麗で作詞の妙が冴えていると思うので)それもまた射程に入れる。

 

・Alt.Strato*7

4th. album「Alt.Strato」はEndorfin.初のストーリー形式になったアルバムである。Alt.Stratoは高層雲の意。アルバムにはひまわりの意匠が施され夏物語が提示される。Endorfin.には四季シリーズとしてのちに括られることとなり、Ⅱで挙げたRaindrop Caffe Latteは春、Alt.Stratoは夏、この次に紹介する純情ティータイムは秋、そしてⅤで挙げるStories of Eveはその名の通り冬を背景とする。

ーひまわり畑、入道雲、刺すような青空と蝉の声

 この場所に帰ると思い出す

  君は君の道へ 私は私の道へ

 きっともう交わらない平行線を歩いてゆくのだろう

あの日の君の影を探してー

Alt.Stratoで特に「泡沫の灯」とに収録された「Four Leaves」が人気である。後者は2019年のメガ博でSpicaとともに披露された。

泡沫の灯はなくるさん作詞である。Endorfin.で描かれる世界観の切なさは心を抉ってくる。描写の正確さ、それを突き抜けるストレートな感情、しかしそれも背景にかき消されながら自分へと帰ってくる、決して感情は相手に伝わらない、そんな堂々巡りが歯がゆく他人事のように思えなくて愛おしい。

「涙と夏を結ぶ 夜風と菊花火 尾を引いて 水面に消えていく

 ずっと傍に居たのに 声は泡となって 君へは届かない

宴の夜、周囲の賑やかさとは対比的に、涙が零れ落ち一人佇む自分、そして君に思いを伝えられずただ岩影から幸せそうな君を覗くことしかできない、そして、君は傍にいない。

「君が大好きだったんだ ただそれだけなのに

 沈んでいく 呼吸も出来ない」

「好き」であること、それはアクセサリーのように簡単には付けたり外したりできない。ああ自分はこの人が好きなんだ、そう気付いた時にはもう遅い、好きであることの重荷は必ず後手に回ってしまう。一目惚れがわたしにとって一目惚れのイミテーションでしかないこともこのことによる。前曲の「リフレクション」がまさに「全ての今は過去になる 気づいているのに 弱虫な僕を叱って」と語る。しかしどうしようもないのだ。

恋心を感じたモーメントを恐ろしく残酷な筆致で描き出す、描かれた背景すら、鼓舞するどころか自分自身を責め立ててしまう。好きだったんだ、ただそれだけでどうしてこんなにも傷つかなきゃならないんだ、きっと手を伸ばせば掴めるはずだった「幸せ」を手放した代償は大きく、いくら時が経っても悔恨の念は消えることがない。

だが、現実には一つの恋の終わりを悟る。寄る辺のない歌が宙を舞う、季節を越えてまたあの夏、あの場所へと戻る。「夏の青に包まれて 止めどなく溢れ出す哀 もしあの時間に戻れたとしても きっと言えない」あの日と同じ景色が後悔を滲ませる。Alt.Strato、残酷過ぎる時の流れが置き忘れた青春の一ページを燻らせ、どこか懐かしい(架空の)郷愁の旅へ。もっとも残酷なのは歯がゆい青春すら与えられなかった、わたしたちであるのだが。

 

・Cotton Candy Wonderland 懐色坂

夏にはEndorfin.名義で2曲、「Cotton  Candy Wonderland」と「懐色坂」である。

Cottton Candy WonderlandはEndorfin.一甘い曲として謳われているほど、先述のAlt.Stratoとは趣向が違う。甘いお菓子、メリーゴーランド、おもちゃたち、子供たちだけに開かれた魔法の世界... 確かに一番ファンタジー色の強い楽曲であることには変わりない。今までのEndorfin.とは歌詞が違う。ただし、フェードアウト部分がザーとテレビの砂嵐映像のようにして終わる部分はEndorfin,らしい。

 

一方の「懐色坂」は元々Endorfin.の曲ではなく、VALLEYSTONE feat.かなたんの楽曲であり、それのEndorfin.remixである。曲の背景にぴったりと合うサウンドを出しながら、Endorfin.色を前面に押し出すあたりが器用でとてもいい。

"恋"とは誰が名付けたか  まるで不治の病のように
   この身も心も溶かして あぁ、もう日が暮れてゆく

 

・純情ティータイム

そして2018年のEndorfin.の最後を飾るのが5th.EP 「純情ティータイム」である。前者3曲。表題曲の「純情ティータイム」に、かつてKLAMNOP NEXT「Pastelphonic pt.2」に収録された「Hypnotic Marmalade Jam」、CROSS×BEATS収録「filament flow」。このうち2曲目は藍月なくる作詞である。

 

表題曲:純情ティータイムは、間奏の8ビット音がポップさと疾走感を効果的に表現し、先述のRaindrop Caffe Latteを彷彿とさせる。また、「春とはまたひと味違う、まったりとしたティータイム」と紹介されていて、Raindrop Caffé Latteを念頭に置いているのは確かだろう。

ココアの香り 大きい吸い込んで 幸せチャージ

   何処へ行こうか まったりでもいいかな

   気ままに Tea Time

冒頭から甘い香りを漂わせ、teatimeが始まる。Raindrop Caffe Latteとは違い目の前には相手がいる。その意味では「君」がカフェの前に駆けつけるところで終わるRaindrop Caffe Latteと地続きになっているとも考えられる。カフェラテとは対照的で、何から何まで甘い「ホットココア」が幸福感と結びつく。「苦い現実より甘い夢が見たいの」と対比され、このteatimeが甘い夢として語られる。
そばにいて それだけでいいの

   いかないで またすぐに会えるのに 

   だいすき これ以上何も要らないなんて 月並みなMy Love

ここが純情ティータイムの骨子となるサビである。ただそれだけで十分という態度、つまり無欲でそこまで多くの幸せを願わないというストイックさ、そして「月並み」と卑下して〆る部分にEndorfin.らしさを感じる。ゲーソン外のEndorfin.の楽曲は言葉がシンプルな上に無駄がほとんどなくシャープであり、心にすっと、その歌詞が反響する。月並みであるのがどれほど大切かわかる。

「だいすき」たったそれだけ。「言葉はいらないから手のひら重ねていつまでも」と2番サビで突き詰められる。「だいすき これ以上何も要らないなんておかしいかな」「君がいて私がいるそれだけでいい」言葉を超越し、ただ私と君がそこにいる、存在している、当たり前のことかもしれないけれどそれが奇蹟なのではないか。ただいるだけなのに、いや、だからこそ切実さが強調される。もっとも、自分に言い聞かせるように繰り返すこの「想い」は、その後の「Stories of Eve」でさらに加速する。

この世界で一番甘いとこだけ切り取って

   余ったカケラを全部捨てちゃえば

   幸せになれると思ってた

キャッチーなフレーズである。この世界の甘いとこだけ、甘い夢のような世界に閉じこもれば、ずっと幸せなままでいられる。甘い甘い曲調の中でこのCメロが特殊な層となり、楽曲全体に深みを与えている。先ほどの「苦い現実より甘い夢が見たいの」とは対照的でカラメルのようなほろ苦さが感じられ、そのような態度では幸せになんかなれるわけがない、と悟ってしまう。やはり苦い現実からは逃げられない。いいとこ取りなんざ許されないわけである。さらっとビターなことを言えてしまう。Endorfin.ならば。

ほろ苦くて甘い世界をきっと教えて」とRaindrop Caffé Latteでは述べられるが、純情ティータイムと軌を一にする。思えばRaindrop Caffé Latteは待ちぼうけと晴れない心の中を明かす曲であった。待っている時間を「幸せのスパイス」なんて美化できるほど浮かれていないよ、と。純情ティータイムは「だいすき これ以上何も要らないなんておかしいかな」と自分の心情に対して留保を置いている。浮かれているもおかしいもやはり自分が異質でなければ思わない。その意味では態度の表し方は似ている。

しかし、Raindrop Caffé Latteでは、否定神学的なメルヘンが感じられる。待ちぼうけの時間を「幸せ」と言い切ることなんて笑われるよね、と否定した上でなおそのメルヘンチックな世界に浸ろうとする。メルヘンをメルヘンという枠に閉じ込めることでメルヘンを味わうのだ。一方で純情ティータイムはままならぬ現実とteatimeという甘い夢とが対比になり、磨り減って欠けた心を埋めるように君とのteatimeが語られる。「この世界の甘いとこだけ」がメルヘンだろう。teatimeそのものがメルヘンと呼べるのかもしれない。そして純情ティータイムの世界観はこの甘い時間で埋め尽くされる。Raindrop Caffe Latteとは違う図式のメルヘンである。ただし、「だいすき」という切実な言葉は「幸せのスパイス」とかいうオーバーな表現とは真逆である。「これ以上何も要らないなんておかしいかな」という譲歩が来るあたり、非常に控え目な願望しかない。甘い時間を吸い尽くすこと、「幸せのスパイス」なんて言葉にするほどのメルヘンに対してすらも、後ろめたさみたいなものがここに表れていると思う。苦い現実の魔の手がいつもEndorfin.の側にある。

横たわる現実はモノローグの話者にとって不都合な存在であり、それとの戯れが感情となって溢れ出す。理想だけを追い求めてもそれは空中に浮かぶ楼閣のように不自然で白々しいものになってしまう。理想家であるためにはまず現実家でなければならない。ままならない現実と格闘しなければ理想は打ち立てられない。飛行機が滑走路で加速するように、現実に足を付けてエネルギーを充填させれば、より遥か彼方の理想へと飛翔することができるのではないか。理想家はそのようにして現実を利用する。

 

・LOST IDEA*8

このように夏の大きな物語と秋の小さな物語を経て、2019年「LOST IDEA」で飛翔する。このアルバムはM3の中でもとりわけ人気を博し注目を集めた。長蛇の列に並んで買ったことを覚えている。「純情ティータイム」がとりわけEndorfin.の中でも影が薄いのは、「LOST IDEA」という飛翔のための雌伏の期間であったからだろう。

ストーリーは「崩壊した世界で紡ぐ二人の少女の物語。平和な日常が偽りだと知った少女が、その先で見たものとは__」となっており、最初の2曲:「絵空」と「カラフルモーメント」は平和な日常を描き、3曲目 [kaleidoscope]で日常の崩壊を、残り4曲:「ユリシス」「LΦST-IDEA」「dispel」「薄明が告げる明日に」が崩壊した世界を舞台に物語が描かれる。Alt.Stratoの時もアルバムを通して1つの物語が浮き彫りになるように展開されていたが、LOST IDEAは物語の筋書きを、シロとクロという少女2人の物語であることをすでに提示している。

この中でもdispelと「薄明が告げる明日に」に絞って見てみる。詳しくはこちらを参照

 

dispelはcross beats提供曲であり、初出は2016年である。このLOST IDEAでfull.verを公開するまで約3年かかったことになる。元々は音ゲー提供曲、それがLOST IDEAという物語という新たな文脈、翼を得て天高く飛翔する。特に2番が非常に迫力のある構成となっており、楽曲の壮大さがより際立つ形となった。非常に激しい曲ながら、Raindrop caffe ratteや純情ティータイムのようにポップな8bit音を間奏に採用し、激しい電子サウンドの中に溶け込んでいる。Endorfin.と音ゲー、dispelはその集大成である。

一方の「薄明が告げる明日に」はなくるさん作詞である。苦難を乗り越え二人で生きていこうという決意が表れる。どんなに絶望的な世界であっても幸せを噛み締める姿は、LOST IDEAの終幕に相応しい。

一呼吸の言葉でどれだけの未来が

 変わるだろう 変えられるだろう

 幾重にも広がった結末のifはやがて

 ハッピーエンドへと辿り着くstory

本当にこの歌詞が素晴らしい。何一つとして無駄がない。幾多のifを辿りながらも最後にはハッピーエンドが待っている。ちょっと甘いなくるさんの声が福音のように響く。

幸せの渦に居たら

 幸せであると気付けない

 脆く儚いからこそ 強く惹かれた

この部分は共感を持つ人も多いのではないか。当たり前のような日常でさえ、その日常を失って初めてその大きさを思い知ることになる。そんなささやかな幸せを享受すること自体、かけがえのないものなんだと。LOST IDEAという絶望的な世界観の中ではっきりと掴んだもの、それが二人の幸せである。

 

・これくらいで

また2018~19年はエロゲの主題歌も歌っている。まずは「ずっと前から女子でした」OP:「友愛進化論」、「空に刻んだパラレログラム」OP:「クオリアの輪郭」、そして「夢と色でできている」ED:「これくらいで」である。このうち3曲目の「これくらいで」は、作詞作曲:堀江晶太氏とビックネームであるので、これを専ら取りあげよう。

堀江晶太氏は作曲もそうだが、歌詞が非常にキャッチーで上手い。Fengでは2013年「小さな彼女の小夜曲」からOPEDと作詞作曲しているが、特にED「キスの一つで」はどうしてここまで背景がありありと浮かんで心情も正確に描写できて、それでいてキャッチーなメロディに乗せることができるんだというくらい、素晴らしい。実際「これくらいで」は歌詞も簡単でありきたりな言葉でしか使われていないが、ところどころ修辞技法が織り込まれている。そして一番は非常に平坦な曲調であるのにもかかわらず、なくるさんの歌声の特徴、ベースとなる甘くてほろ苦い歌声と、伸びやかなファルセット、その全てが詰まっている点にある。なくるさんが歌った曲の中で5本の指に入るくらいの屈指の名曲であると思う。

何でもない幸せが ただひっそり在ればいい

 どうせ 飽きる暇もない日々だろうから

 当たり前じゃないけど 当たり前にしたいよね

 気まぐれに変わる街で 相も変わらず笑って

誰にでも幸せの意味について考えた経験はあるだろう。目の前にあなたがいることが幸せ、そんな慎ましやかなことでさえ、当たり前ではないのだ。純情ティータイムで語られた幸せは「これくらいで」でもリンクする。

これくらいで これくらいで ずっといよう

 幸せって さりげなく あったかいや

 やっと分かった やっと分かり合えた

 こんな嬉しいこと ないよ

「幸せってさりげなくあったかいや」これほど重みのある言葉もないだろう。話が合った、ともだちになれた、くだらない話をいつまでもした、些細なことであってもどこかあったかい。幸せの多寡をここまで真っ直ぐに言い切るのは堀江氏らしい。

きっと 運命は気まぐれ

 ほどけたり 掛け違ったり

 だから 優しく 優しく結んでおこうよ

ここの部分の修辞が本当に綺麗だと思う。運命に振り回される主人公が、Endorfin.では山ほど語られたが、ここではただ「優しく結んでおこうよ」と優しく諭される。強くぎゅっと結ぶのではないところにセンスが光る。

星屑みたいな 無数の未来から

 見つけてくれてありがとう

 まだ言葉じゃ足りないから

 照れくさくて笑っちゃうから 言わない

   あなたでよかった なんて

   これくらいで これくらいで ずっといよう

   幸せって さりげなく あったかいや

   やっと分かった やっと分かり合えた

   こんな嬉しいこと ないよ

Cメロとラスサビであるが、ここのなくるさんのファルセットが切実で、様々な感情を帯びて聞き手に迫ってくる。AメロBメロサビを、それこそ「積み木を重ねるよう」にして丁寧に歌い上げ、Cメロラスサビでクライマックスを迎える。ラストへとなくるさんの歌声が微妙に変化して飛翔するのは、まさに2016年のHorizon Noteと同じである。やはりこの段階まで、なくるさんの歌声は複雑な夾雑物が宿っている。可愛らしさも甘さもほろ苦さも清々しさも格好よさも何もかもを含んだその声は、クオリティの高い楽曲の世界観をあますところなく表現しきる。もちろん、技術的には雑なところもあるが、油彩絵の具のような深みや発色の良さが誰にも真似できないほど、楽曲の解像度を引き上げてくれる。はっきり言って音さえ合わせればどうとでもなるのだ。ある時は可愛らしく頼もしい女の子として、ある時は残酷な現実に振り回される、迷える子羊のような連中たちの語り部として、またある時は...。もはや歌声自体奇蹟の類であるとしか思えない。

恥ずかしいから これくらいで

ここの締めが最高に印象的である。幸せの多寡は「これくらいで」、自分の想いを乗せた言葉も「これくらいで」。心が芯から温まるような語りはまるで聞き手のわれわれすら幸せになるかのよう。やはりなくるさんを引き立てるのは楽曲の観念(歌詞やセリフ)なのだろう。

だからこそ楽曲は楽曲でその観念・世界観をしっかりと組み立てなければならない。有りあわせの言葉を適当にパッチワークしたような代物であってはならないのだ。あらん限り言葉の可能性を広げなければならない。観念音痴などまっぴらごめんなのだ。言葉と現実(対象物)と格闘しなければならない、そのためには様々想いを巡らせなければならない、もはや単なる感性で決着がつかない領域がそこにある。それと対峙して言葉を摑んで組み立てなければならない。拙いながらも、わたしの書いているこの物語もその一環であると思いたい。観念音痴と揶揄されても書ききらなければ、わたしが読んだ物語を語らなければならない。その愚を犯してでも伝えたいことが、わたしにはあったんだろう。

話が逸れた。Ⅳ.で述べられた楽曲の殆どは非の打ち所がないほど歌詞がよくできている。

「これくらいで」の堀江氏はまさに幸せの在り処を端的に語る。世界に横たわる謎ー運命やらすれ違いやらーについても、それに対する彼なりの解答を呈示する。現実を見据えながらもそこに確かな証跡を残す。人間賛歌のような力強さ。だからこそファンが多いのだろう。堀江節に見える彼の「哲学」は「これくらいで」に凝縮され、なくるさんもなくるさんでその哲学に共鳴するように力強く表現していると思う。

一方のEndorfin.は現実と真っ向から戦う、そして運命とやらに自分自身が絡め取られていってしまうのを直視する。破れかぶれでもそこに一抹の理想論を構築する。ストイシズムのように倫理的であり、かつそんな理想論は身勝手である。また堀江氏のように自分なりの答えを出すわけでもない。答えが出せないし出せたとしても非常に消極的なものになるだけである。事は既に取り返しのつかないことになっている。泡沫の灯がまさにそうだ、Filament Flowも。LOST IDEAだけが明るい未来を映す。自身の慰めのために様々な逡巡を重ねた挙句たどり着くのは何もない世界である。明朗にシャープにこの世の問題について一つの解答を示す堀江氏は、その歌詞の文体が面と向かった相手に対する「語りかけ」であるのに対し、何も行動することができない無情な状況を描こうとするEndorfin.は、その歌詞の文体が相手がいるのにもかかわらず「モノローグ調」であるところに大きな違いがある。

それでも幸せのカタチは両者似通ってるところはあると思う。ささやかな幸せがあればそれでいい。「薄明が告げる明日に」や純情ティータイムはそんな幸せが下敷きになっている。幸せとは何か? 出世して金を稼ぐことか、権力者になることか、酒池肉林の乱痴気騒ぎを延々と行うことか、美女をヤることか、いやそんな価値観は現代人には響かない。シュークリームの中のカスタードがコクがあって甘かったとか、心惹かれる雑貨を見つけたとか、たまたま読んだ本の一節が気に入ったとか、街でばったり旧友に出会ったとか、そっちの方が現代人は好きだろう。世界が存在するという奇蹟を自覚すること、つまり幸福に生きること、Endorfin.の歌詞にはともすればそんな当たり前の幸せを慈しむ気持ちで溢れていると思う。

そしてそんな幸せがわたしは好きだ。この頃初めてなくるさんのブースを訪ねてお会いした。言うのも烏滸がましいが、「幸福な生」でいっぱいだと思った。その幸せの一つ一つは本当に些細なものかもしれない、だが「幸せの渦にいても幸せを感じられる」ような気がした。だからこそ、今こうしてわたしはこの界隈に入ることになったんだと。

 

そうした思いを振り返ると、なくるさんの作る歌詞は本当に人の心を大きく揺さぶるものだと思う。多少不器用なところはあるが、それも含めて等身大の想いが表現されている。だから好きだ。決して観念音痴ではない。ちゃんとそれを見据えている。くだらない技芸に走ることなくまっすぐ捉えている。

言葉は時間と空間に左右されない。記号だからだ。ということは記号の集合体たる歌詞は風化しない。永遠に観念の世界を飛翔し続けるのだ。歌詞カードを開けば、そこにはあの日の想いが色褪せることなく広がっていると信じたい。これ以上は何も望まないから、この刻の幸せを、永遠に噛み締めていたいと強く願う。

まるで 綿菓子のような 甘い時間は溶けて

I will be happy to...

Endorfin. 「Cotton Candy Wonderland」

  

Ⅴ. Le Temps retrouvé 蒼穹に放たれた物語 2019~2020(春)

「私が戻ってきたのはね。もう一度、星の音を聞くためだよ」

恋×シンアイ彼女」より

随分と遠くまで来てしまった。ページを何枚めくったか、それすらも分からない。栞の位置もだいぶ後の方になってきた。右手に持つページは厚く、左手に持つページは段々と薄くなる。おとぎ話も終盤らしい。早く読み進めたいような、読み切ってしまうのも勿体ないような、そんな気がする。

春・夏・秋の物語を辿った、海の世界にも行った、思えば様々な世界を旅してきたと思う。数々の出逢いと別れがあって、その中で生まれる感情の交差点を渡ってきた。それぞれの世界で至った境地があった。その度に考えさせられるものがあったし、楽曲の世界での中で踠く人々に自分自身を投影させることもあった。

翻って2019年を考えると、ライブが多かった。5月のEndorfin.が参加したメガ博、7月のなくるさんが参加したなごりんLive、表舞台に立つことがあまり今までなかったので、生歌が聴けるのは本当に嬉しかった。そして何より歌っている姿がとても美しくて幸せそうだった。素晴らしい記憶として、今でも目の裏に焼き付いている。ライブやEndorfin.楽曲制作という大きな文脈を経て飛翔したのが、この2019年だった。

 

この大きなうねりの中で、一体何に導かれてここまで来たんだろうか。そこに捨て難い「メルヘン」があったからだ。荒唐無稽だとして現代から切り離された「おとぎ話」を、なくるさんはその切実な歌声とともに語っていた。歌声と共に紡いできたその刹那に、永遠の桜がある。おとぎ話への入り口があるのだと。くだらないと切り捨てられた夢物語を、訳も無く守った者たちへの祝福がそこにある。きっとそうなんだと思う。

Ⅰ.ではおとぎ話の永遠を願い、Ⅱ.では桜のアレゴリーをたどって永遠の楽園を目指した。Ⅲ.では近代を破砕して楽園の裏側へ、そしてⅣでは飛翔する藍月なくるの影を追い求め、幸福の在処を今確かに掴んだ。メルヘンに導かれてここまでたどり着いた。

 

それは「星の音」とも言い換えられる。街の片隅に星の音が降り注ぐ。その調べをEndorfin.は、そしてなくるさんは紡いできた。Ⅴ.で紹介する「彗星のパラソル」はまさしくそうだ。

しかし、「星の音」なんざ荒唐無稽なメルヘンがある日ふと消えたりしないだろうか。喪っては困るのだ。ありとあらゆる願いや祈りが、現実に毟り取られた挙句、あの日の感動までも色褪せてしまうなんて、そんな残酷なことが赦されてはならない。せめておとぎ話の中だけでも永遠であって欲しい。そう願っている。

 

・Stories of Eve *9

ここで語られるのはEndorfin. 7th album 「Stories of Eve」より「終点前」、La prière「Gemini Syndrome」より「君よ」、そしてEndorfin. 8th album「Horizon Claire」

 

Endorfin. 7th album 「Stories of Eve」は「M:routine」、「white night story」 、なこれ2に収録された「ガラスアゲハ」そしてラストを飾る「終点前」の計4曲である。

終点前は、それ自体何かしらの終了を物語る。Horizon Claireという終結を。ターミナル駅に本線と支線が合流するように、全ての物語が輻輳する。その間際、「終点前」というエピソードが挿入される。そこにはEndorfin.特有の爽やかさはない。叶わない恋心が現在進行形で語られる。重々しいギターサウンドが雪の様に、募る想いとともにのしかかっていく。

二年後なんてまだずっと先のことだと思っていた

 あの日と同じ景色 仄暗い道の途中

 ふたつの白い息が 夕暮れの雲に融ける 刻まれてく

 別れのカウントダウン 神様は残酷だ

 色んな話をしたね  ああ 最後の時間が消える前に

イントロ→A→Bと進み伝えられない想いが語られる。時の流れはあっという間である。無情にもわたしたちの感情を忖度せず置き去りにしてしまう。2年後なんて。私は何をしていたのだろうか。思い出せない。ここでの主人公は確かにその時を噛み締めている。2年前と同じ場所同じような時。それが最後の時間であることを悟る。Endorfin.は美しく切ない最後のワンシーンを、モノローグを痛いほど鮮明に描き出す。

「神様は残酷だ」。春風ファンタジアでも見かけた舞台装置。時の流れとともに象徴されうる存在。決して救済のそれではない。主人公の自意識と真っ向から対立し、またその自意識を形成する存在である。もはや梃子である。梃子としての神を利用し自意識を飛躍的に拡大していく。

ストイシズムを駆動させるエネルギー源とは、この梃子だったのではないか。例の「セカイ系」もまた、このような代物ではなかったのか。現実やら現実を統べる不条理を見据えすぎてしまったが故に辿り着いてしまった自意識という名の幻影が世界観を牛耳る。

君の好きな音楽も お気に入りの服も

 好きな人も 恋の痛みも

 全部知ってるのに 未来のことだけは

 まだ何もわからないまま」(1番サビ)

白い車窓が走る 緩やかに僕らを終点へと運んでゆく

 イルミネーションに彩られた景色より

 君がいる場所にいたいんだ」(2番サビ)

いくら相手の趣味嗜好を全て把握していても、未来のことは何一つとしてわからない。全く質が違うからだ。だが、自分が今持っている感情の代償は知っている。それを引き受けた上でこの状況を噛み締めている。

ここにEndorfin.の描写の豊かさの極致がある。「終点前」の作詞はデルタさん。初めの頃の象徴的な歌詞の雰囲気からグッと具体的で描写も豊かになった。近代人が抱える茫漠とした感情を、報われない感情を見事に掬い取り、鮮やかな世界観を表出する。もはやゲーソンという枠組みの囚われない豊かな文脈がEndorfin.から流れ出す。

そして極めつけが2番A、Bメロである。

いつか映画で見た

  『全てのものはいつか終わりがくるから美しい』

    なんて 観測者の戯言

    笑うたびに辛くて ああ

    いっそ嫌われてしまえるなら

全てのものはいつか終わりがくるから美しい」。Ⅰ.の桜色プリズム、Ⅱ.の序文で出てきた要素が出現する。終点の存在がそれほど大事なのか。花は散るから美しいのか。恋は叶わないから美しいのか。おとぎ話はめでたしめでたしで終わるから美しいのか。しかし、そんな真理はこの主人公にとって、理解できても何の慰めにもならない。この今が報われることが重要なのだ。だから「観測者の戯言」なのだ。観測者とはまさにEndorfin.である。Endorfin.のコンセプト、美学である。物語を紡ぐメタ的な存在が出現する。物語の書き手のお出ましである。「終点前」の主人公の運命を独占的に決めつけられる存在の登場だ。本当に皮肉な観測者である。

いや、皮肉だからこそメタ的な表現は活きる。物語の構造に対して複雑な陰影を付けることができる。終点前という全てが終わってしまうほんの数分間の情景の中で、目の前の光景に翻弄され逡巡する恋心ー「嫌われてしまえるなら」と追い込まれるまで肥大化するほどの恋の痛みーと、この舞台(君との帰り道や電車の中)を設定した神様=観測者(=Endorfin.)に対するやり場のない想いとが絡み合わさる。そしてこの恋心とやり場のない想いがEndorfin.お得意のモノローグで語られる。

メタ的人物は楽曲の提示する世界観に関わらなければならない。その切ない世界観に寄り添うのであれ対立するのであれ。Endorfin.という語り部=メタ的人物は舞台装置である。いわゆる「カメオ出演」はそれで意義をもたらさない限り、ただただ皮相的で邪魔な演出になりかねない。所詮影は影である。

 

そして何より示唆的なのが「Stories of Eve」のジャケットである。Endorfin.とネームが刻まれているスノードームに、本を読む女の子が描かれている。storiesとはこの本を指すか。聖夜の物語(M:routine、white night story、終点前)が読まれているのだろう。ここでも終点前と同じくメタ的にEndorfin.の姿が表象されているといってもいい。

終点前の物語も、このような形でおとぎ話に加工されて永遠のものになる。本を開けば彼女たちの悦びや苦悩を追体験できる。わたしが各章を通じて見出したかった核心がそれである。Lovin'me、Horizon Note、桜色プリズム、Alt.Strato...取り上げた楽曲に通底する観念を追いかけた。

もちろん、わたしはこの本の(Endorfin.の楽曲の)製作者ではない。しかしそれを誰かに語りたかった。この素晴らしいおとぎ話を。だから今まで感想という体でブログを書いてきた。 今まで私が書いてきた意義が、ここでくっきりと浮き彫りになったと思う。

 

様々な感情と紡がれてきた想いを乗せて電車は終点へと走る。行き着く先はハッピーエンドか、それとも。しかしその前に寄り道をしよう

 

・君よ

La prière「Gemini Syndrome」は2019年冬コミで発売された。La prièreとは棗いつき・nayuta・藍月なくるによるユニットである。 詳しくはこちらに譲る。*10この中でも、なくるさんソロ曲「君よ」について述べていく。

作詞作曲はNanosizeMir塚越雄一朗氏である。元からかなり好きな作曲家さんだったので本当に嬉しかった。この後もなくるさんやいつきさんに楽曲提供を続けている。同時期になくるさんと柚木梨沙さんとのデュエットソングである「夢見るMilkyWay*11を提供している。

「君よ」だが、四つ打ちサウンドながら非常に荘厳で迫力にある曲となっている。今までのなくるさんソロ名義でも、Endorfin.でもない。そして歌い方もかなり違う。具体的なアルバムの背景を排除して、その表現演出に焦点を当てて起こった変化を綴ろう。

まず、2014年から根底にあった「甘ったるさ」が鳴りを潜める。今まで鳴り響いていたそれが、特に「Stories of Eve」の頃から退潮する。今回の「君よ」の場合、楽曲のモチーフに沿わないのでそのような表現が可能になったことは偉大なる進歩である。また、ビブラートを響かせることができるようになった。これはなくるさんの配信でも言及されていたことである。楽曲に深みを持たせることができるようになり、ただ音をなぞっているような状態から(それすらも危うい状態から)脱出できたという点で技術的に向上したのは、表現の幅を広げるという意味でも大きな一歩である。そしてこのビブラートは、あの透明なファルセットと地続きの関係にある。

楽曲に負けず劣らずパワフルに歌いきっているのは変わらない。「君よ」のエモーショナルさは他のなくるさんの楽曲と比べても強い。琴線に触れる歌声とはこういうことだろう。単なる感情の押し売りではいけないが、一定の熱量が人々の心を強く打つ。わたしはそう思っているし、感情のさじ加減が聞き手に没入感を与えることとなるだろう。

だが、この「君よ」は「進化」か?いやそんな代物ではない。昨年を生きたわたしとは違い、2021年を生きているわたしは知っているのだ。これは「爆弾」である。レモン色した爆弾である。一切合切を塗り替えてしまいかねない爆弾である。星の残響をもかき消し、わたしがたどってきた物語が木っ端微塵に破壊されかねないものである。パラダイムを転換しかねないものだと。あの時は浮かれていたんだ。こんな傑作に出会えたことに純粋に悦びを覚えていただけだったんだ。過去にならねばその意義はわからぬ。幸せと同じように。全ては後の祭りだ。

 

旅路は最終局面に入る。訪れてきた街にあった日常を描いた物語たちと、どこからか生まれてしまった爆弾を抱えながら、役目を終えた人工衛星のように大気圏を突っ切って蒼穹に軌跡を描く。流れ星のようなその姿にわたしたちは何を願おう。清濁様々な想いを、今まで出会ってきた主人公たちの想いがせめて報われることを。もう一度星の音を聞くために戻ろう。Finと書かれているページを目指して。

 

思い出なんてもういらないから
痛くて甘い想い取り戻そう
考えないで感じるままに
あの日の星の音を 一緒にみつけよう

Duca「記憶×ハジマリ」

いずこへ行けばいいのか。東がどこで、西は、南は、北はどこなのか。おっとっと! ちらっと星が流れる。隕石が墜ちたところがどうやら私の行くべきところのようだ。そうだとすれば隕石よ! 墜ちるべきところへ、必ず墜ちてくれなくてはならない。

「隕石の墜ちたところ」尹東柱 (金時鐘 訳)

 

・ミントブルー・ガール 彗星のパラソル Horizon Claire*12

Endorfin. 8th album「Horizon Claire」は全7曲。Storytellerとしての「残光」眩しすぎるほどEndorfin.らしい「ミントブルー・ガール」ちょっとダークな「floating outsider」、CHUNITHM収録「Innocent Truth」、EDM調のFatalism、そしてわたしたちを追憶の世界へと誘う「彗星のパラソル」、見出された時を象徴する表題曲「Horizon Claire」となる。アルバム名からわかる通り、Horizon Noteに対するアンサーソングとなる。そしてこれがEndorifn.の物語の終焉である。この後Alice's suitcase以外に特に楽曲を出していない。

流れに逆らうことなく歩く 歩く      

何も気にしないような素振りで

どこか君を探している

春に夢を見て 夏に切なさと

秋の温もりと 冬の静けさを知った

変わってしまったのはこの場所か、それとも

星の円周上をただひたすらに廻る 廻る

君の残光に吸い込まれてゆく

Endorfin.「残光」

物語は始まりの地点に辿り着くこととなる。君を探し続ける旅を続けて、またHorizon Noteのジャケットと同じ場所に立ち止まる。上記の「残光」や「ミントブルー・ガール」はそれを示唆する。「ミントブルー・ガール」は明らかにHorizon Noteを意識したようなワードを散りばめている。例えば「境界線の向こうまで 風を受けて Fly high」など。

この世界でたったひとつだけ変わることのない

 箱庭に何を詰め込んで君に伝えよう

 いつだって最高の今を生きていたい

 魔法解けるまで stand by me このまま...

永遠のメルヘンがここにある。スノードームの中にあるミニチュアのように完結した物語(=セカイ)を、つまり今まで辿ってきたEndorfin.の楽曲を、藍月なくるの楽曲を、旅の土産話として君に伝える。わたしが語りたかったのもこれなのだ。たくさんなくるさんに魔法をかけてもらったとはこういうことなのだ。わたしはこの魔法に生かされた。この魔法が尽きて欲しくないのだ。魔法があればその中で永遠に生きられる。悦びも哀しみも全てあの日のまま残される。

思えば「魔法」は「Lovin' me」の時から存在しているのだが、その頃(2014年)わたしはまだ同人界隈にすらいなかった。きっと7年以上応援している人は少ない。しかしあの魔法の呪文を唱えられたら、みな虜になるのではないか。なくるさんの冬華TOHKA時代を全く知らない。あの頃の作曲者たちはどこへ行ってしまったのだろうか。それはいい。魔法が「ミントブルー・ガール」まで続いていたこと、それ自体が奇跡である。

ミントブルーの帆風にこの身預けたら stand by me

 このまま 綺麗なままで終わりたい

Endorfin.特有の終わりの美学も忘れない。刹那的な明るさが炭酸の表象に解けてHorizon Noteで呈示した楽曲性が昇華する。

 

そして旅路の果てに辿り着く前に一夜を明かさねばならない。終点を迎える前にもう一度逡巡の動機付けが必要である。それが「彗星のパラソル」である。今まで旅で出会ってきた人々を頭に描きながら、大切な想いを抱えながら夜が明けるのを待とう。

目覚めたら今日もまた  いつも通りの天井

 心失くそうとしても拭えない感情

 暗い部屋からのぞく白い窓に

 映る空想だけが輝いていた

感情と自分自身とが釣り合わない。叶えたい夢があった、なりたい職業があった、特別ななにかになりたかった。思いとは裏腹に何もできなかった自分がいる。綺麗に写るのはその時描いてた空想だけ。「幼い日の欲しいのものって好きなものってなんだっけ」。2番Aメロはより具体的にわたしたちが忘れてしまったかけがえのない存在を思い出させる。ひたすら迫り来る現実に追われる日々、こんなはずじゃなかったのに。
このまま何にもなれないままで 消えてしまうのがただ怖くて

 また息をした 僕の頭上を切り裂いた彗星

 君もそうなの?

 どうして届かないものほど  涙が出るほど愛しい

 幾千もの夜を越えて辿り着いた

 ここには何も無いの わかってたけど

孤独に光る彗星、それと共鳴しようとする僕。あの日叶えられなかったこと、万感の思いを彗星に託す。「どうして届かないものほど  涙が出るほど愛しい」。幼き日々、昔の片思い相手、故人、もう取り返しのつかないことばかりで、だから堪らなく愛おしいのだ。きっと「終点前」の主人公も同じように思うこととなるだろう。過ぎ去りし日々ほど、囚われやすいものはない。good old days、rosebud...。

そしてメフィストが示したような永遠の虚無がそこに横たわっているのかもしれない。この旅路さえ無駄足だったのかもしれない。そのような不安が頭を過る。

歪な一瞬の光を いつか放てるように

不器用な形であっても何かを叶えたい。一瞬を乞い願う態度は追いかけてきたEndorfin.の各楽曲のそれと通じ合う。というよりもこの一瞬をわたしは見続けてきたのだ。象徴としての桜もそうだ。現実にしがみ付いた先に開かれる超越論的な世界の入り口を。きっとそこに置いてきたものがあると信じて。

 

彗星のパラソルというイニシエーションを終えて、いよいよHorizon Claireの世界へと足を踏み出すことができる。

青に落ちた影がひとつ

 あの日止まった物語の紡ぐ先へ

あの日止まった物語:Horizon Note 水平線の向こう側へと向かっていく。「いつまでも君の隣じゃいられないよね」から4年後、旅路の中で触れてきた想いを糧に、今度は自分の方から君を迎えにいく。

駆け出してしまいそうな衝動に

 微かな憂いの色仄めいて

 鼻先を掠めた 記憶纏った春風

 時を越えてまたここで巡り逢う

君と再会するそのみぎり、春風ファンタジアのように追憶の春風が吹く。あの時よりもHorizon Claireはもう一歩前向きである。「幾つもの出会いと別れを繰り返し 大人になっ」たはずなのだから。不安はあれどもそれを塗り替えられるほどの強さで。自分に言い聞かせながら乗り越えていくのだ。

キミのいる空に届きたいから もっと高くへ

   隣寄り添える私になれたのかな

   まだ一歩足りない

 その距離を追いかけるよ」(1番サビ)

変わってゆくもの 変わらないもの

   季節巡っても 解けた糸はまた結い直せばいい    

   形ない想いが僕らを繋いでゆくよ」(2番サビ)

これまで経てきた物語をバネにして君のもとへと跳躍する。そこにはEndorfin.の抱える拗れた自己意識の欠片もない。ただ最後の瞬間に向けて最短距離で飛翔する。「解けた糸はまた結い直せばいい」やり直しはいくらでもきく。まるで「これくらいで」で示されたような答えである。一つ確かな答えを見出せたのだ。

そして形ない想いとは何だったのだろうか。特に示されてはいない。一つに固まることのない「不定形」の、または目に見えないくらい微かな感情なのだろうか。不定形だとしたら始めに捉えたなくるさんの歌声がまさにそれである。不定形だからこそ、様々な情感を表すことができる。たった1曲の中でさえも印象をガラッと変えることができる。Horizon Noteからその萌芽はあった。ともすれば歌声それ自体においてでさえ発生する矛盾する要素がある。その不断の弁証法的展開の産物として「藍月なくる」の楽曲が世に顕現すると前に書いた。その豊饒な営みにこそなくるさんの魅力があった。わたしはそう考えてる。

 

過去の楽曲のモチーフを磨き上げながら示唆的なメッセージを落ちサビに挿入する。

いつかの音が ふわり漂う

 記憶の端で呪いのように いつまでも憶えている

 その旋律に振り向いた

「呪い」とはすなわち「祝福」である。才覚は天啓でもありながら、授けられた本人の将来を縛り付けるものである。ウィトゲンシュタインが哲学に祝福され、哲学に呪われていたように。*13いつかの音を「祝福」ではなく「呪い」というところにEndorfin.の概念に対する透徹した視線を感じる。清濁の片方だけ享受することは許されないのだ。

そしてこの音こそ「星の音」である。街に降り注ぐ星の音は霊感を与えるが、エネルギーが大きすぎて縋り続けるようになる。福音ではあるが、それは必ずしも当人の幸せを保証するものではない。

その呪いは何によって証されるのか、それは輝かしい「過去」である。「思い出」と言い換えてもよい。それ自体が美しくエネルギーを放ち続けるのだ。だから誰も悪くないのに人々を訳の分からぬ方向へと導いてしまうのだ。丁度Ⅱ.で秒速五センチメートルを振り返ったが、貴樹のこのモノローグが決定的であった。「でもとにかく今は と僕は思う。僕は彼女を守れるだけの力が欲しい」

過去とは太陽である*14。それ自体直視できないほどのエネルギーを見返りなく授ける。恒星もまた同じく全てを焼き尽くし光を放つ。一方の未来は月であり所詮太陽のエネルギーを受容しているに過ぎない。未来は過去の陽炎である。その太陽の魅力に惹かれたら、確かにエネルギーは得られる。Endorfin.の物語のモノローグは燦然と輝く過去に対する憧憬があり、特にAlt.Stratoは追憶の牢獄に閉じ込めてしまうほどノスタルジーを徹底的に煽る。ただそれは過剰なのだ。全てを理性的に用いることができない。だから様々な概念に飛び火する。近代人のよくいう「克己心」と、過去の恋人との記憶や憧憬がマリアージュしたのが貴樹であり、過去の思い出(=星の音)に縋ることで自身の恋情と才覚両方を満たそうとしたが遂に叶うはずがなかったのが星奏である。誰が見ても愚であることはわかる。1つ目の失敗である。

いや、だからこそこの腐った現代世界に一つのメルヘンを灯せたのではないか。少なくともその愚すら犯そうとする勇気もないわれわれが何か物を言う権利はない。

ただ当たり前だが私たちが縋れるのは「自身の過去」に対してである。それは無限にエネルギーを放つ太陽とは違って有限である。いつか効力は切れて「今」に回収されるのだ。2つ目の失敗である。

 

今まで旅路を支えてきた祝福とは、ともすれば以上のような独りよがりな結果になりかねない。だからこそ「呪い」なのだ。「呪いのようにいつまでも憶えている その旋律に触れてみた」とはその愚を犯す覚悟で君に会うということだ。祝福への糸が延びる。それを辿れば遂に君に報いることができる。眩しいくらい前向きな決断である。

ああ キミに届きたいから もっと高くへ

 隣寄り添える私になれたのかな

   まだ一歩足りない その距離を踏み出したら

   キミは微笑んで そうしたら笑い返すから

   ふたり歩みだそう

   あの日止まった物語の紡ぐ先へ

春に夢を見て夏に切なさと秋の温もりと冬の静けさを知った」。崩壊した世界とそこから芽吹く希望の物語も知った。知らない世界の境界線を跨いだ。クラゲたちの宇宙にも楽園の最深部にも訪ねた。何でもない幸せがこれほど尊いことを知った。そして私たちはこう悟るだろう:場面・情景・時間の移ろい、何もかもが一つに繋がっていたんだと。一つも無駄なことはなかったのだと。寄る辺の感情たちが報われる瞬間が訪れたのだと。

万感の思いが鮮やかな楽曲群(ストーリー)を通して輻輳されHorizon Claireに縮約される。見出された時がそこにある。

 

単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか?はるかにそれ以上のものであるだろう...これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官で あった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらしたある霊妙なトリックによって、よわまり、ふっととまり、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、 同時に、一つの感覚を― フォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々を― 鏡面反射させたのであった...現在のなかで、物の音、リネンの触感等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念を、 そのままつけくわえたのであって...私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないもの― きらりとひらめく一瞬の持続― 純粋状態にあるわずかな時間を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は...事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の愉悦を見出さないのである。...すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現時ではなくて現実的であり、抽象的ではなくて観念的である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我が― ときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我が― もたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思われなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?
しかし、現在とは両立しがたい過去の一瞬に私を対面させたこのだまし絵は、長つづきしなかった。むろん、意思的な記憶の場面なら、人はそれを長びかせることができる、そうするには絵本のページを繰るほどの努力もいらない。

マルセル・プルースト失われた時を求めて』見出された時 

魔法が終わる、おとぎ話が終わる、メルヘンも記憶の流れに回収される。最後のページを捲った時、わたしは気づいた。今度はわたしがこのページの続きを書くのだと。それが読み切った者の役割だと。

ページを破って蒼穹に放ち、それがふいに誰かの手に渡っておとぎ話が紡がれば、その中で永遠に生き続けることができるのだろうか。書き綴った記憶の切れ端を拾ってほしい。Endorfin.とともに、わたしの辿った拙い世界も語られたいと願う。

 

Endorfin.より愛を込めて。

影の世界 光が射し込んだ 目を開けて

夢だけはここで終わり 偽りない気持ちだけは

君に伝わりますように......

 

「さようなら。いままで......ありがとう」

藍月なくる「Piece of Mind」

 

 

最終章.  横滑り・簒奪 2020.4月~2021

 実際には大部分の花は凡庸な発達しか遂げておらず、葉とほとんど見分けがつかない。あるものにいたっては忌まわしいとは言わないまでも、人を嫌な気持ちにさせるのだ。一方の最も美しい花でさえ、毛むくじゃらの生殖器官の作り出すしみのせいで中心部は台無しになっている。

バタイユ花言葉

 

「桜が咲いて散ったその後」何が残るのだろうか。花弁に隠されていた雌蕊や萼、およそ花だったとは思えないほど、グロテスクなそれである。また散った花びらもヘドロと化して地を染める。それが真実だ。春の宴のあと、打ち捨てられた盃や高台のように寂しいだけの光景が目の前に広がる。

そして元のテーマに戻る。「いつか見た、あの美しいおとぎ話の面影すら、そこにはない。物語はどこにいったのか?」Ⅰ.~Ⅴ.まで辿ってきたおとぎ話の面影、それは様々なストーリーの輻輳の果てに、残光とともに消えていった。Horizon Claireという終点で。終わりがあるから美しい。そう述べてきた。果たして本当に終わりだったのだろうか。もし終わりだとしたら、その先に何があるのか。ちょうど死後の世界について思いを馳せるように。

 

結論から言おう。物語が飛び立たなくなった。おとぎ話は死んだのだ。

 

神話は、儀礼に関連づけられ、最初はポエジーの無力の美を持った。しかし、供犠の周辺に表れた言説は、世俗的で、利害にかかわる解釈へと横滑りしていった。

横滑りは必ず生じて、従属へと向かう。

バタイユ「死と供犠」

 

なくるさんの歌声は複雑な夾雑物が宿っていた。可愛らしさも甘さもほろ苦さも清々しさも格好よさも。ともすれば矛盾しさえする声質が、1曲の世界観の中で様々な形で織り込まれていた。Horizon Note、Nier Monochrome、Mqubeやニコ動にあげられてた「歌ってみた」...。それは声優の為せる技と評価できるのかもしれない。その豊饒な甘さが今まで様々な人の心を癒し慰めノスタルジアの奔流へと巻き込んでいったのだと。耳かき音声もその一つ。

一方ですでにこの不定形の魅力には厄介な「調律師」が影をちらつかせていた。わたしが「爆弾」といったそれである。それがおとぎ話に爆弾を投げ込んで粉々に砕いてしまった。そして「調律師」があれよあれよと優等生的で皮相的な鋳型に、その歌声を溶かし込んだのだ。大量生産される製品のように。*15

結果、残ったのは綺麗なファルセットである。それだけあれば歌うのにはちょうどいい。注意深く聞けば甘さや爽やかさは微かに残っている。だが後景に追いやられているのだ。むしろ少し拙い「Piece of Mind」の方がより個性を発揮しているのではないか。最近流行りの歌い方なる何の価値もないODDS AND ENDSに「横滑り」してしまったのだ。死んだ物語の後に歌う歌は残酷だ。

それは誰の責任か、そんなもの問うても物語は帰ってこない。一つ言えるのは時の流れだ。桜をグロテスクなオブジェに変える、それだ。

 

勿論、聞けば聞くほどなくるさんの歌唱技術の高さなるものは伝わってくる。Nacollection-3-はその意味で色とりどりな歌声を楽しむことができる。

 

この時期の主要な楽曲を以下に示す。

<Album>

・Nacollection-3- (なこれ2の後継)

・Eufolie ItknkR(棗いつき+藍月なくる)

・Baby Romantica 藍月なくる×まめこ

・Galaxy triangle La prière

<単発>

・my generate

・SHERRAS

・Evil bubble

<歌ってみた>

・バイオレンストリガー

・お勉強しといてよ

・好き!雪!本気マジック

・シニカルナイトプラン

・メルティランドナイトメア

 

楽曲としてコラボ曲がやはり多い。またEndorfin.もそうであるが、複雑で楽曲に求められる技量が高い。Baby Romanticaのようにダイアローグ的に一つの物語を提示しているものもある。しかしⅠ.〜Ⅴ.のように楽曲を取り出しても物語が物語として浮かび上がらない以上、そのような書き方は意味をなさない。

 

歌曲をもってその印象を語る時、少なからず作詞と作曲に分かれる。前者は言葉の問題であり後者は構成の問題である(作詞にもプロットという構成はあるにせよ)。今まで語ってきたⅠ.〜Ⅴ.と最終章の究極的な断絶はここにある。

一番大きいのは作詞だろう。観念・世界観をしっかりと組み立て言葉の可能性を広げること。言葉と現実(対象物)と格闘し、そのためにも様々想いを巡らせ言葉を摑んでいくこと。観念に対する神経を尖らせなければならない。その闘いがおとぎ話の始点となる。

Endorfin.にはそれがはっきりとあった。なくるさんも、確かにそれを見出していた。またそれ以外の人物であっても、歌詞の構成に長けていたりキャッチーなフレーズを作れたりしていた。有理さんがまさにその例に当たる。

そしてこの観念が粗雑に理解されてしまったところから、物語の息の根は止められてしまった。楽曲の世界観を駆け回る登場人物たちは説明口調になり、活力を失う。聞き手に余白がない以上、こちら側に何かを語る権利すらも奪われてしまう。

 

近代劇においては、「観念性」の主張のために、劇のなかの文学的要素であるせりふがまづ被害を受け、痩せ細り、美を失ひ、張りを失ひ、リアリティを失った。だが、作者はその犠牲において別の自己満足を得る。なぜなら作品の「観念性」は全部のせりふを組み立てたもの、すなはちその統轄者である作者に還つていく。救はれぬのは役者だ。...せりふにおいて行動の喜びを味はふことが出来ない。

その結果、すはなち、「観念性」によつてせりふに行動を拒絶された役者は、せりふと行動を全く別のものと考へざるをえなくなる。...そこに演技の視覚的美学の自律性といふ課題が出てくる。はやりの言葉でいへば、「写実性」にたいする「様式性」であり、「文学性」にたいする「演劇性」である。

福田恆存日本新劇史概観」

 

見誤った「観念性」を満足させるために、「演劇性」が要求される。音楽であれば楽曲の構成、コード進行、メロディ共々が複雑化する。演奏効果が最優先され演奏技術のみがそれに答える。ただ音合わせのために選ばれた言葉と何一つとしてひねりのないプロット、そこに物語が紡ぎ出す力はもはや存在しない。

 

例を出そう。 La prière  2nd album. Galaxy triangleより1曲目「戦場の歌姫」は、異常なほど複雑なメロディと、それを構成する3パートに分かれた曲である。1回聞いただけでは曲の概観すらわからないだろう。途中のnayutaさんのソロパートがなければ完全に崩壊している。逆に落ちサビのそのパートがあるからこそ、かろうじてアルバムのStorytellerと役割を果たしている。これは安定した歌唱技術がなせる技である。それを狙ってあえて複雑な構成にしたかどうかは定かではない。前回の La prièreでの「それは世界を越えて」はプロットは至極単純であるが構成がしっかりとしているからこそ、3者思い思いの歌声を響かせることができた。しかし「戦場の歌姫」はその個性すら没却させているきらいがある。歌詞もその犠牲になる。これは「Eufolie」にも多少当てはまるところがある。

また観念性がひどく痩せ細っている事例として、「無意味なメタ的表象」がある。例えば前記アルバム中6曲目「Galactic Love」やNacollection-3- より1曲目「Azura Luno」。後者は完全に「藍月なくる」を表象する曲であるので、その意義自体はある。それをどこまで歌詞に組み込むのかが問題である。ただ単に歌い手の名前を歌詞に盛り込むだけでは芸がないし楽曲の世界観に余計なノイズを与える。はっきり言ってやらなくてもいいのだ。Endorfin.の場合「終点前」ではメタ的にEndorfin.の存在が観測者として暗示されるが、上記の楽曲はその韜晦さを欠く。ファンは喜ぶかもしれないが、そのために犠牲に供される音楽的価値が大きすぎる。

後は全般的に言えるが、歌詞自体の力が削ぎ落とされている。例えばEufolieより「愛に飢えたケダモノ」はAメロのような風景描写は優れているが、ただただ過激にすれば演奏効果が得られると思っているきらいがある。過激な表現を履き違えているのは「パライソ・パライソ」も同じである。言葉に表されると、暴力はその暴力性を去勢される。バタイユがサドに見出したものである。*16それを忘れてはならない。決して言葉は暴力を担保しない。ただし、暴力と意識、その装置を上手く使い熟せば暴力以上に凝縮した暴力を表現できると思う。もちろん、メロディラインは非常に綺麗でもあり、「Lilith」でも「ジョーカーパレード」でもその鮮烈でおしゃれな楽曲のイメージは「愛に飢えたケダモノ」でも保たれる。

言葉のピースを当てはめして意味が通ればそれでいいというわけではない。2020年の楽曲群は客観的なものが多すぎる。Storytellerとしても説明書きをただ読み上げるような代物になっている。何に焦点をあてるかが大切である。Endorfin.は明らかにモノローグに終始している。小さな針穴から光が差しこみ、暗室に像が映し出されるようにして、物語の世界を観測者たるわたしたちが覗き見る。一方、2020年のEndorfin.以外の楽曲は「神」視点で、つまり第三者視点で物語が紡がれる。そこに自意識が介在する余地はない。もちろんそれ自体が否定されるいわれはないのだが、それは詩の性質としていかがなものだろうか。少なくとも近代を生きるわれわれにとって。

 

大きなうねりがHorizon Claireの頃より飲み込んできて、おとぎ話は扼殺された。もうその物語のページは更新されることはない。だからⅠ.~Ⅴ.でこの美しい物語を、紡がれたテクストから羽ばたいていく物語を追わなければならなかったのだ。完璧に葬られ忘れ去られる前に、永遠にその姿を残すため。そして物語の書き手が消えてしまったから、その空いたポストを簒奪した。Storytellerとして、語られたものをあらたに語ることになったのだ。

振り返ってみれば、2014~2020年まで駆け抜けてきた軌跡は、引き裂かれた近代人たちの絶唱であった。時計仕掛けの街によって破砕され角に追いやられたメルヘンの断片を拾い上げ、狂乱の時代に一輪の花を咲かせる。青いバラを咲かせるようにそれは夢幻かもしれない。そんなしみったれた価値のないものにストイックになるのもバカなのかもしれない。祝福なんて待っている保証なんてない。

それでも永遠のメルヘンを追い求めた。馬鹿正直なほど、その影を現実世界に追い求めた。現実に敗れながらも一筋の閃光を見出すー春風ファンタジア、Alt.Strato、そしてHorizon Claireはその清洌な精神をもって再会を願う。そのポエジーをなくるさんは表現していたのだと思う。星屑のように散らばった人々の記憶を集めて廻り続ける、メリーゴランドみたいに。綺麗な白馬と聖者に率いられたそれに乗っていれば、楽園にたどり着けると信じていた。

目を向けてみればママが

笑いながら 手を振って私を呼ぶ

私は白馬に揺られ 楽園を目指し走っていった

メリーゴーランドをぶっ壊せ

ぐるぐる まわる まわりつづけて

ぶっ壊れ続けていく このメロディ

ぐるぐる 走る 走り続けて

たどりつけない羊たちの

ロックンロール 鳴り響け

竹田直子(結衣菜) 「メリーゴーランドをぶっ壊せ」(はつゆきさくら より)

メリーゴーランドはひび割れ崩れ落ちてゆく。物語を奏でてきた聖者はその力を削がれ、白馬は鞍上に乗った人間によって無残に鞭打たれる。だれもかれも見誤っているのだ。作詞作曲、そしてわれわれファンも。Endorfin.が一番なくるさんの歌声を真に響かせることができると語っていた人がいたが、4年前の記事ながら現在でも通じるものがある。*17

彼らは、彼女の魅力のうち瑣末なものを称揚し、中核を見捨てた。藍月なくるというメリーゴーランドが紡いだ物語を解体し、隠蔽し、別の皮相な観念に塗り替えていく。シニカルナイトプランに寄せられたコメント群はまさにそうだ。配信内のなくちゃ歌い手藍月なくるという二項対立は、なくるさんの歌声内部の矛盾要素とその弁証法的展開に比べれば貧相なものである。その運動の展開でさえもこのコメント欄では隠蔽されている。過去の歴史との大きな断絶がここにある。おとぎ話を一番絞め殺したのはこの群衆ではないのか。もちろん、この功罪はわたしにもある。

だから人は……いや、俺は、物語を求めるのかもしれないな

そこには永遠が閉じ込められているから

めでたしめでたしだけが、閉じ込められているから

『魔女こいにっき Dragon×Caravan』プロローグより

あの日の感動はとうの昔の記憶の奥底に沈み込んでいく。多くのものを得て多くのものを失ってきた。物語はもうすでに死んでしまったのだろうか。わたしがStorytellerになってしまって何かを見落としてしまったのではないか。

どこか、わたしはまちがっていたのではないか。もう一度旅路の始点に戻るか。もしかしたら物語が生き返るかもしれない。

 

過去の空間と時空へ戻ろう。Ⅰ.まで戻ろう。大切な記憶を取り戻すために。

D.C

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Coda 紡いだ軌跡はこの今に繋がってる? 

 

ヨーロッパの20世紀にはこのような特性をもつ作家が、多くはないとしても、あちらやこちらに見受けられる。始まりと終わりの類似ということなら...巨大な例が見られる。プルーストの『失われた時を求めて』(1913~27年)である。この物語はベッドにいる著者の姿から始まり、よく知られているように、紅茶に浸したマドレーヌの食感によって、数十年の昔の記憶を甦えらせ、いかにして一人の少年が作家になるかを描き出しつつ、最後はこの少年ののちの姿である現在の話者の姿に戻ってくるという構成を持っている。

入り口は狭いとしても、そこから別の空間が生成してくることについての物語である。あるいは別の視点を促されることもあり得る。『失われた時』は通常円環構造最後に最初の場面に戻ってくるを持った作品だとされるが、それはむしろ、半睡状態でベッドにいる一人の人間の姿を二つに分割することで始まる作品だと見なすことも出来る。そしてその間を繋ぐ物語が紡ぎ出される。

吉田裕  「空間の輻輳に関する試論 Ⅲ」 

Horizon Claireという終点に立つとき、Horizon Noteを仰ぎ見ていることに気づく。アルバムジャケットの風景も同一、そして「ミントブルー・ガール」を補助線としてそれが「始まり」であることを知らせる。歌詞も両曲で対句的に描かれている。「いつまでも君の隣じゃいられないよね」から「隣寄り添える私になれたのかな」へ、「もういちど君の隣で笑えるなら」から「キミが微笑んで そしたら笑い返すから」と、そっくりそのまま立場が踏襲されている。

トランプの表裏のようにHorizon NoteとHorizon Claireは描かれ、その間からⅠ.~Ⅴ.までの、すなわちHorizon Noteから春夏秋冬の物語と星と海の物語、ポストモダン的な世界が生まれた。トランプの裏側にたどり着くまでには4年の歳月がかかった。

ここで確かめたいのは物語が誕生する「瞬間」である。その作劇法を捉えることだ。そしてトランプの表裏という大きな枠組みを見据えながら、微視的に一曲一曲を見てみると物質的な表象が、たとえば桜、町並み、雲、星が記憶の奔流のトリガーとなり、自意識の輪郭を浮かび上がらせる。それは主として現実と自意識との格闘となる。現実と意識のずれが、その境界線において「セカイ」なるものが顕現し、物語が、今まで紡いできた「おとぎ話」が表出するのだ。そして誕生した物語の行く末は、このトランプの表裏という枠組みの中に吸収される。特にEndorfin.の作劇法はこの通りであると感じる。

 

物語の生成方法はわかった。それさえわかれば、もう一度「おとぎ話」を再興できるのかもしれない。「君はどんな色を見てるの?」という問いかけから、いやそれ以前に遡れるかもしれない、「君にも魔法をかけて」、ティーカップから溢れるように物語は紡ぎ出されたのだ。もう一度甘い魔法を取り戻そう。

 

カフカは最初と最後を同時に書いた。逮捕の章を書いたあと、トランプをめくり返すようにして処刑の場を用意した。もしかすると、最後のシーンを先に決めて、それを裏返しにしつつ最初の章を書き出したのかもしれない。

池内紀カフカの書き方』

 

2020年、Endorfin.はHorizon Claire以外にもう2曲発表している。1つ目は「Alice's suitcase」、2つ目は「For Ulysses (Endorfin. Cover)」。後者は柚木梨沙さんのアルバム「Celestial Sight」の8曲目に収録されている。作詞は柚木梨沙さん、作曲はBlackYさんである。物悲しいピアノサウンドから始まり一気にEndorfin.節を奏でる。そこにはあの日の栄光がかすかに光る。なくるさんの歌声はかつてのようには響かない。しかし、歌声の節々からあの日の豊饒な音色が羽ばたき出す。特にサビ部分「今、届け 届け まっさらな空へ」が素晴らしい。何となく、また物語が開かれそうな気がするのだ。何もかも終わったわけではないのだ。あの日の物語の切れ端がFor Ulyssesに託される。あの日とは違った形でも、甘くてたおやかな歌声にまた会えるような、そんなことを望んでしまうのだ。体系化された歌や流行に追随することなく、唯一の歌声を響かせてほしい。エゴでも何でもいい。歌が上手い人に追随しなくてもいい。たった1フレーズ1小節でっても、力一杯振り絞った声だけが天地を揺るがし、誰かの心に共鳴するのだ。

そしたらまたおとぎ話の扉が開かれる。現実と観念を見据え、与えられた声を振り絞れば再度物語が紡がれる。一度どっかへいってしまっても、またどこかで会えるはずだ。信じていれば。 遠く離れた屋敷の海棠が目の前に現れるんだ、と 張耒が期待したように、おとぎ話が二度と姿を現わすことはないとは限らないのだ。

 

そして、おとぎ話は永遠の相の下に姿を現わす。形を変えながらも、かけがえのない思いはなくならない。永遠に。

 

6・4311  死は人生のできごとではない。人は死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きるものは永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、 終わりをもたない。

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

 

目を覚ましたら、美しい思い出の続きが、俺を待っている

 「恋×シンアイ彼女」より

 

 

*1:あの素晴らしい愛をもう一度」より

*2:この本居宣長による『玉勝間』231項については、『徒然草』の曲解として批判も強い。なお宣長においては、兼好法師に見られるような「うはべを飾る」心=漢意を否定し、「人のまことの心」を称揚することが狙いだと思われる。例えば『石上私淑言』では「物のあはれを知るといひ、知らぬといふけぢめは、たとへばめでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれとこころのうごく、すなはちこれ、物のあはれを知るなり、これその月花のあはれなるおもむきを心にわきまへ知るゆへに感ずるなり。」と。参考として下西善三郎「『徒然草』と本居宣長 -青年期の受容と晩年の批判-」

https://juen.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4923&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

*3:Steve Reece "Homer’s Asphodel Meadow"

https://grbs.library.duke.edu/article/viewFile/811/891

*4:これについて

pon-hide0228.hatenablog.com

*5:アンリ=ベルクソン意識に直接与えられたものについての試論』彼は、時間の性質をめぐり量と質が混同されていることを指摘しながら、物理的空間的な時間とは異なる意識的な時間を提示した。「流れた時間(le temps écoulé)」と対比された「流れている時間(le temps qui s’écoule)」であり、後者が純粋持続に当たる。それは「質的変化の継起以外のものではありえないはずであり、この変化は、はっきりした輪郭をもたず、お互いに対して外在化する傾向ももたず、数とのあいだにいかなる血のつながりももたずに、融合しあい、浸透しあっている。それは純粋の異質性であろう」と説明される。なお、ベルクソンは音楽にたとえて以下のように表現する「自我は、先立つ諸状態を想起しつつ、それらを点と点のように現在の状態に並置するのではなく、メロディーを構成する複数の音をいわば溶け合った状態で想起する場合のように、先立つ諸状態を現在の状態と有機化すれば十分である。...我々がメロディーのある音を過度に強調することで拍子を乱せば、我々にその過ちを知らせるのは、長さである限りにおいての過度の長さではなく、そのことによって旋律全体にもたらされる質的変化なのである」 ベルクソン哲学とその限界につき、小出泰士「ベルクソン哲学における「自由」について」https://core.ac.uk/download/pdf/231044682.pdfバシュラールの瞬間論を含めて純粋持続と意識についてまとめたものとして、掛下栄一郎「美的時間ー持続から瞬間へー」https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=15584&item_no=1&attribute_id=162&file_no=1など

*6:元は新海誠監督による同名の映画であるが、のちに小説化されている。多少映画とはニュアンスが違うところもあるが、全体的な流れは同じであり、映画で描ききれなかったシーンも補完されているためより丁寧にわかりやすくなっている。

*7:全曲分についてはこちら

pon-hide0228.hatenablog.com

*8:詳しくはこちら

pon-hide0228.hatenablog.com

*9:こちらを参照

pon-hide0228.hatenablog.com

*10:

pon-hide0228.hatenablog.com

*11:これがなくるさんにとって最後の電波曲だと考えている

*12:

pon-hide0228.hatenablog.com

*13:古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン

*14:ポール=オースター『ムーン・パレス』より

*15:第3章で「過剰なエネルギー」と書いたが、その帰結を最終章に提示した。元ネタはバタイユ『有用性の限界』。第5章の太陽の比喩も一部この『有用性の限界』から議論を借用している。

*16:バタイユ「サドの至高者」より

*17:

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